満員電車の詩

まんいんでんしゃのうた


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歪んだ現実

現実は、なぜこうも歪んでいるのか。

ある部分は必然であり、ある部分はエゴによる。
そこに何を見るのか。

正義と罪、規律と悪、勝者や敗者といったような多次元の混沌と、外世界と内世界の境界に表れる一筋の現実。
辿ってきた道は一本の糸となり退路を許さない。
絡み合った糸をほどこうなどと後ろを振り返ると、自分のいた場所さえ見失いかねない。
紡ぎ足される糸は理想の天空へとつながるようでいて、現実の地上から飛び立つ術はない。
折り合いをつけ、調和させ、再定義する。
その繰り返し。
それは常に試練なのだが、そこにしか我々の生きる場所はない。

如何に気づき、如何に認識すべきか。

そして、如何に将来に対して責任を持つのか。

仕事について

一日の仕事の終わり、帰り道、ストリートミュージックの癒しにそっと耳を傾ける。

小雨が降ってくる。
高層ビルを見上げれば夜の闇。
ぢっと空を見る。

人生の大半を占めるのは仕事なのだから、我々の最も得意なことは、仕事をすることだ。
仕事を通して実に多くを学び、成長し、成果を上げる。

旅の記録

人生を旅に例えると、家に生まれ、成長し、学び、家を出て、成長し、学び、そして家を持ち、次の世代へと引き継ぐ。

つまり、人は、家から出発して家へ戻ってくる行路を、われ知らずたどるものだ。
人生という旅をとおして、実際に行って、見て、知り、感じたこと。

我々が生きている世界

コギトエルゴスム 我考える故に我あり、から始まる、今を生きる存在についての思索。

生きて活動し、暮らしていく。
その肯定。

「なぜ生きるのか?」という問いは、「宇宙の果てはどうなっているの?」という問いのようなものだ。
いずれも、認識しえないもの、だ。
解答事態に大きな意味はない。

表現する、故に時代は創られる。

自分に与えられた能力を、如何なく発揮するため、励む、努力する、頑張る。
単純なことであるが、それが実は生きるという性(さが)であり、唯一認識可能な真理。
人間の存在に対する唯一可能な解釈。

損得勘定ではなく、純粋に、努力し、真面目に頑張る行為、人は、何より尊い存在といえる。
間違っても、地位の高い人、頭のいい人、権力者、声の大きい人、成功者、先生と呼ばれる人が、イコール偉い人ではない。

自分のためでも、社会に貢献するため−子供のころは意味がわからなかった−でも構わない。

自分のためでいいのか、人のためにすべきでないのか?
それらはつまるところ、結果、手段、あるいは目的というような意味において違いがあるだけで、生きることの表現の相違に過ぎない。

自分の能力が発揮されることに励めばいい。
誠実に、頑張ればいい。

経験を積み、能力を獲得すればするほどいい仕事ができるのは確かなので、そうすればいい。
誠実に頑張れば、自然、そうなる。

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