新しい現実
新しい現実
現実というのはその場その場の現象にすぎず、客観的に、そして時系列的に捉えなければその本当の姿は見えてこない。
また、見えた姿も全体だとは限らないし、単に相対的な姿なのかもしれない。
知りうる限りにおいて、という実態が常にそこにある。
相対的であること、全体的でないことから、人はものごとの別の側面をそれぞれ見ることになる。
現実は、人の思考の中でも容易に姿を変える。
その人の価値観により、そのときの心理状態により、あるいは他人の影響により、現実は常にデフォルメされる。
人は、自身が全知全能ではないと知りながら、それでも、自分が知っていることを肯定せずにはいられない生き物だ。
歴史が作られる過程において、人は多くの過ちを犯してきた。
しかし、それを過ちと考えるのは我々の価値観からであり、価値観が違えば逆に考える人がいても不思議ではない。
その逆もしかり。
世界の様々な紛争や、環境や生態に関わる問題は、そのようにして起きている。
世界は不完全で、間違った方向へ進んでいるのかもしれない。
それでも我々は、ときの流れとともに、歩み続けるしかない。
未来は予測できないし、現実は常に新しくなる。
過去と現在の事実を見極め、すでに起こった未来を足がかりとして、立ち位置をしっかりと確保し、迷わぬよう、未来のためにできることを為すことが、つまり、我々の歩む道ということだ。
歪(ひずみ)
時代
時代は移る。
人は、その時代の「とき」を自らが刻んでいるためか、自分の生きている時代について主観的・肯定的にとらえる傾向がある。
それぞれの時代において、人は、その世の中が最終形であるかのように、その世の中がずっと続くかのように自然と仮定した上で、その世の中を如何に生きてゆくかということを考える。
次の時代がどうなるかは誰にも予想できない。
変化は突然のごとく訪れる場合もあるし、徐々に訪れる場合もある。
今がずっと続くと思っても、歴史を振り返ってみれば、戦後ここ数十年のシステムや社会が、歴史で見るとほんの一瞬の出来事にすぎないという現実が浮かび上がってくる。
歴史的な流れの中で、世界は、今、このような状態に至っている、たまたまこのような形態を見せている、というだけのことだ。
かつてない科学技術の進歩、グローバリゼーションと情報の共有が可能になった現在、大きな時代の転換があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
望むべくは、平和な状態が続くことだ。
その時代時代において時代の方向性を決めるのは、決めることができるのは、あるいは決めてしまうのは、常にその時代を生きている者たちだ。
過去の意志を継ぐことがあったとしても、残念ならが未来の人たちの話を聞くことはできない。
世界の多くは、そして日本は、止めることのできない時間の流れの中で、高度成長とともに近代化へまい進した。
それは抗うことのできない定めだったのかもしれない。
今の社会システムのもと、我々は常に経済的な競争にさらされ、勝ち続けることを求められている。
それが、よりよい社会を築くものだと信じて。
時代が変われば流行や常識が変わるのは当たり前だが、言葉の意味や法律さえも変わってしまう。
社会システムも、きっと変わる。
はたして、次の時代の人たちは、今の時代を振り返ってどう考えるだろう。
情報の氾濫
いつ情報の時代が始まったのかという明確な定義はないかもしれないが、自分はその始まりと恐れを1980年代の高校時代には意識していた。
情報の時代はネットとともに始まったわけではない。
ネットの普及はその環境を劇的に変えはしたが、それよりずっと以前に、ラジオやテレビという媒体の普及により、情報の拡散は始まっていた。
恐れの一つは、情報による知識と現実との乖離、つまり、自分で感じたり経験して得られる知識と、情報として得られる知識との乖離の問題。
もう一つは、情報の氾濫や、様々な真偽が入り混じった中からいかに正しい情報を得ることができるかという問題。
この問題を完全に解決することは今でも難しいが、自分の立ち位置をしっかりと持ち、思考のストラクチャーを築き上げていき、確かなものを一つずつ正しく理解していくしかない。
一方で、情報に溺れ、流され、留まり、翻弄され、見失い、あてもなく、ぞろぞろと、しかも意識せずに、原因も探らず、漠然と、あるいは単にそれに乗っかり、悩まず、自分と属するグループ以外を否定しながら、他のところで大きな流れがあっても認めず、自己都合と既得権益の世界にどっぷりと浸って出たがらない人たちが、世の中には大勢いる。
情報の時代に産まれ、情報を衣服のように身にまといながら成長してきた世代にとっては、我々の世代と違って情報の扱い方になれているのだろうが、いずれにしても、いかに情報と適度な距離を保てるかが、自分自身を確立する上での条件となる。
「最近同じような事故が多いね」という話題。
事故は事実であって注目されるべきだとしても、意識して、あるいは無意識にクローズアップされて報道されていることをわかっていないと容易にミスリードされてしまう。
情報はより入手しやすく、また、簡単に扱えるようになった。
便利になり、かつて情報を得るために費やしたような労力は必要なくなったが、その分、情報は軽くなってしまった。
現代人の最大の特徴は、知っている、ということだ。
色々なことを、多分、正しく。
しかし、知っているだけ、という場合が多い。
背景
今、世の中を暗くさせているのは、少子高齢化により引き起こされる様々な問題と、現実における日本の相対的な国際競争力の低下という問題だ。
まだ多くの人が気づいていないのは、その背景にある日本人のモチベーションの低下と、「日本」に対して抱いている期待と実際とのギャップだ。
苦労して成功した親の子供は、甘やかされて育ち親の財を食いつぶす。
その子供は、逆に苦労して育ち立派な大人になる。
寄せては引く波のごとく、個人では抗えない運命。
日本は経済的に豊かになったが、精神的には豊かさを感じられない人が多いという。
一方、夢を持たなくなった、リスクを冒さないといった、内向きな安定志向を持つ人が増えてきているという。
様々な背景が絡み合って現在の問題を深刻化させているわけだが、ある意味、これは起こるべくして起こっている現象といえる。
抗えない定めの中で、それでも出来ることをやるしかない。
不均衡
不均衡とか不平等はいつの世にもあるし、それが人の世なのだろうが、すべての不均衡は時間の流れの中で成長する。
過去のモデルを継続してしまっていることに伴う既得権益が、不均衡や不平等、欠陥、そして多くの歪を生んでいる。
しかるべきこと
しかるべき立場の人が、しかるべきことをすぐに忘れるために、社会はうまく機能しない。
歪んだ現実
構造問題
構造問題とは、利益なき繁忙と非効率なルーティーンワークが同時に存在する社会構造のことだ。
細かく分割された資本、継ぎはぎで増幅された上に老朽化した生産設備、狭い土地、高い賃金、旧態依然の組織構造、非効率な書類作りと生産性、時代にそぐわない優遇や規制。
そして、未だ時代の変化を受け止めようとしないマインド。
技術力が高くても、優秀な人間がいても、利益を生まなければ継続は無い。
一方、庇護のもと確実に利益を確保できるとするならば、そこにはシステム上の問題があるに違いない。
海外の勢力と伍していく上で海外に生産拠点を移しても、その場しのぎにしかならない。
イノベーションを継続できる社会システムが求められている。
世代
1960年代後半生まれは、かつて新人類と呼ばれた世代だ。
親の世代が復興と豊かさの追求という目標を持っていたのに対し、この世代は特に明確な目標を持っていない。
戦争に負けたことに対して心の奥底に憂いを抱く最後の世代かもしれない。
経済成長の恩恵と共に成長する。
1990年代初期にかけて、まだ格差は残っていたものの、国民のほとんどが中流階級であることを意識した時代に大人になる。
そして、バブルを経験する。
その子供たちが成長した時代は、経済が停滞し、少子高齢化が始まり、将来へのつけが深まり、そして、失われた20年と言われている。
表面的にまだ豊かな経済と将来への不安とが同居した世相は、この世代の思考形成に多分な影響を与えている。
苦難と成長神話を経験している老人たちは、「今の若者は、」といいながら、働く世代に精神的な奮起を期待する。
そして将来世代と比較して高額な年金を甘受しながら、それが当然だと思っている。
現実的には、一部の浪費家を除いて彼らの多くは資産やお金を持っている。
彼らは過去の貧しい時代を経験しているために、すべからく節約家であり贅沢を好まない。
働く世代は、増え続ける高齢者への助成、消費の減少、海外勢の攻勢という三つの困難と直面している。
今の若者は、といわれ続けながらも、各世代にはそれぞれの背景が存在する。
新しい世相や知識に対しては、若者の方が敏感で吸収も早い。
これは、老人の経験を伴う知恵、に対比され、その結果として世代間のバランスが保たれるのだが、世代間の知識と経験の差は、多くの場合に相いれないギャップを生む。
年長世代の主張
今の日本の現状を戦後と対比させ、厳しい状況の中であっても、一人一人が日本を良くする(復興させる)という意識を強く持ってものごとに当たれば、日本は必ずよみがえることができる、というような主張がある。
強力なリーダーの出現を求める一方でリーダーに全ての責任を負わすような風潮があることを批判し、今こそ市民レベルにおいて自らも身を削るような努力をするべきだという主張もある。
今の日本の現状を危機感を持って見ているという点で、全くそのとおりだ。
が、では、どのようにすれば、国民が動くと言うのだろう?
国民が危機感を共有するのかしないのか? 共有したとして、変わろうと行動を起こすのか起こさないのか? その方向は?
具体的な方法は?
屏風から虎を出すような話だ。
明治以降の近代化において日本が奇跡的ともいわれる経済発展を遂げたことは、日本人のポテンシャルの高さを示すものであり、日本人としての誇りだ。
それぞれの節目節目において、日本人は幾度も困難な状況を克服してきた。
今回もそうだろうか。
事情が少し異なる。
飽食の時代を背景に価値観を形成してきた今の世代が、戦後の体験を持つ年長者と同じように行動することはあり得ない。
経験値が異なる。
精神論を持ち出してきても、結果は伴わない。
影響を受けやすい少年期や青年期に体験したことは、その後の生き様のベースと成りえる。
はたして、今の大多数の若い世代は、その人生において自らを強力に突き動かすような動機や困難を体験することなく今を迎えている。
一方、海外の国々は、その国の人達は、今まさに困難な状況を乗り越えて、豊かさを渇望しながら発展へと歩みを進めている。
今、時代は一つのエポックにあるということに気付かなければならない。
時代は巡っている。
時代のダイナミズムの罠に気づき今の新しい現実を直視する勇気があるものは、将来のために何ができるかを考え、行動しなければならない。
惰性の潮流
先達は苦難からの復興と高度成長を実現し、日本に物質的な豊かさをもたらした。
後に続く世代は、自信あるれる先達に恩を感じながらも委縮し、獲得した豊かさの中、環境の変化に戸惑いながらも新たな道を決断するに至らない。
グローバリゼーションの中で後手後手に回るのは旧来よりのグローバルな視点の乏しさが一因としてあるが、今の日本は、過去の蓄積から逃れられず、現在の束縛を断ち切れず、新たな試みが支持されず、改革の道筋が見えてこないという状況にある。
こて先に捉われ、無責任に主張し、利己に走り、心の豊かさと言いながら楽を求める。
衰退への道は惰性の道でもある。
腕力の衰退
古来より権力や富の背景として使用されてきた武力は、時代の成熟とともに非日常になってしまった。
必要とされなくなってくる腕力。
近代以前は、心身の鍛練というように心と体が同等に重んじられ、それらは相互に作用するものとしてとらえられていた。
文武両道。
生死と直結し、ストイックであった。
体を鍛えるというその意味。
今ではスポーツという枠組みの中でのみ価値が認められる。
社会においては肉体で戦うことなどまずなく、知力と処世術で勝ることが成功への道となる。
健康であればよく、体術を身につける必要などない。
生存能力においての、肉体的な強さという優位性は高くない。
生存は優しくなり、緊張感が衰える。
平和になってくるほど、入れ替わるように、世の中には情緒が静かに浸透し蔓延する。
草食男子と揶揄される。
腕力を伴うシンプルな威厳などは古い時代のものになりつつある。
強さの定義はあいまいになり、浅知恵や思いつきがまかり通る。
こんな時代は過去の歴史においてあったか?
原始からのかい離は、進化なのか?
大きな日本
日本は大きな国だ。
決して小さくはない。
中国には小日本という表現があるようだが、それは別にして、小さい頃よくいわれていた「小さな日本」という表現は、多分にアメリカを意識したものだったのではないだろうか。
そこには、敗戦に対する負い目とともに、それを払拭し小さな島国でもアメリカと伍していこう、という強い意気込みがあったのでは。
しかし、実際は(現在の日本は)、人口でみても、もちろん、経済規模で見ても、他の国と比べてまったく小さなわけではない。
比較の対象がアメリカに限定される傾向があったのも、今は昔の話だ。
勤勉でよく働く国民。
教育や技術、協調性や精神性、歴史や文化的財産、経済的豊かさを象徴する整備されたインフラや最先端の製品群。
現在について、または物質について見る限り、日本は、過去において想像すらできなかったような、幸福な時代の幸福な瞬間を謳歌している。
一方でその繁栄は、歴史的にみれば、一つの時代の終わりの始まりに差し掛かってきているのかもしれない。
それは、多分、いつの時代の終わりも、内部の不活性化による不合理と、外部との相対的な弱体化という歪から始まるように。
日本は大きな国だ。
大きいため、これほど国際的に活動しているにもかかわらず、海外からは内向きとよく言われる。
実は、国際的に活動しているのはほんの一部分(特に最初と最後)で、ほとんどの人の活動は国内で完結している。
強力な商社という形態の存在が、その実態を象徴している。
国際部門がなければ日本は成り立たないが、一見、国内で商売が成り立っているような感覚さえ持ってしまう。
内向きのまま、これまでは経済がどうにか成り立ってきた、というのが実状だ。
眠れる獅子でいてはいけない。
二極
日本の顔の二面性。
伝統由来の独自性に根差す日本人の行動様式は、欧米から見ると因習的システムによる閉鎖性として解釈される。
経済成長期、日本は安い円をベースに貿易黒字で潤うビジネスモデルを築き上げた。
急速な経済発展のなか、国内の産業は、技術進歩を商機拡大へ結びつけるべくカスタマイズへ邁進する。
産業人はその手法が絶対的なものであると思い込み、海外勢による国内進出の失敗を努力不足として見下してきた。
円は、必然により切り上がった。
他方、根底にあった過保護な規制はグローバル化の波とともに抗うことのできない外圧によって徐々に、ひっそりと取り払われてきている。
カスタムメイドは、コスト競争の点でボリューム戦略に圧倒される。
コストに屈し、技術を捨て、貯蓄された富を切り崩し将来の負担を増す。
生き残るのは強いものだ。
独自性にこだわれるのは強いものだ。
こだわりは捨てずとも、形骸化した成長神話の遺物を払拭しない限り強くはなれない。
維持可能なのか。
死に際にもがいても遅い。
働けど
幸福度の国別の比較でも明らかだが、日本人は欧米と比べると、概してプライベートを削りながら長時間働く傾向がある。
働けど、働けど、まだ働く。
実際は以前と比べて労働時間は短くなっているはずだが、欧米と比べるとどうしても働く時間が相対的に長い。
長く働く理由は様々だろうが、結果として労働時間が長いということは、伍する欧米の諸国と比べて何かが劣るのか?という疑問を生じさせる。
先端技術や開発力、教育レベルを考えると、能力で劣っているとは思えない。
であれば、考えられるのは消費者の要求が高すぎるか効率が悪いということだ。
多分、両方だ。
合理性を重んじる欧米との差がここにある。
我々の過大分の労働力は何に費やされているのか?
最終的には、ものとして形になるか、エネルギーとして消費されるかのどちらかだ。
生産されるものに費やされる労力は、ボリュームと質に分けられる。
特に質に関しては、日本人の独特の細かさとこだわりが災いする場合もある。
煩雑な、あるいは形骸化した手続きや書類作成、重複、近視眼的なプロセスや不調和で非効率なシステムがいたるところにある。
少数派
変化の最初は少数派に始まる。
一方、変化の最後も少数派で終わる。
社会システムの枠に収まらない少数派や、システムの欠陥をついて存続する少数派もある。
民主主義において少数派は保護されるが、意味合いにおいて大きな違いがある。
少数の抵抗と、少数の甘え。
多数派と少数派は比較論の点からお互いに相いれないものとして常に存在するとも思えるが、自分の立つ大地の広がりに考えが至れば、お互いに同じ大地を踏みしめていることに変わりはない。
カルチャーギャップ
外国人の振る舞いや行動を、我々が持っている「日本人の常識」をベースにして考えてしまうのは致し方ない。
彼らの世界観を理解できないからだ。
遡れば、誰しも幼少時から様々なカルチャーショックを経験しながら世界観を形成してきたはずだ。
だが、多くは、大人になるにつれ学習をしなくなってくる。
より観念的になる。
身の回りの環境が整い、住む世界が限定されて守りに入るからだ。
経験しえない外国人の生活文化を本当に理解できるわけもなく、表面を見て何かを理解したつもりになっても、それは文字通り理解したつもりのレベルだ。
何ができるか、あるいはどうすべきかを考えたとき、我々ができるのは、二つの現実、つまり実際に起こったこと、それ以外は知らないということ、を素直に認めてそこを出発点とすることだ。
そして、なにより相手をリスペクトすることだ。
英語
例えば英語教育。
その必要性は、もちろん受験のためではない。
グローバル化とボーダーレス化を背景とした、将来にわたる国際的な活動や協調への備えのためだ。
そして今後ますます重要となる海外勢との折衝において、英語ができないのはハンディ以外のなにものでもない。
ほとんどの人は、日常で英語に触れなければならないという状況にはない。
それは別にいい。
英語ができればいいという問題でもない。
英語ができれば、海外の人と仲良くできるというわけでもない。
しかし、その必然性が、まわりまわって全ての国民に関係するということを、今よりも将来においてより重要となってくるということを、今、理解しなければ文字通り手遅れとなる。
金融
お金を転がしてふくらます。
やっていることはそういうことだ。
経済活動に必要な資金の流れを管理し企業活動を支えるのは、現実論において、それが役目なのだから当たり前のことだ。
農民が農作物を作り、工人が工作物を作り、商人が商品を売るように。
なのにお金を扱う人は特権を与えられたかのように振る舞う。
本来はジャンケンの世界であった。
それがお金の力を知り、制御する術を学び、実体から分離させて増幅させることまで可能にした。
しかも、そのお金が本来行く道理のない場所へ行き蓄えられる。
マネーゲームで稼ぐお金と、働いて稼ぐお金では意味合いが異なる。
実体を伴わないお金が、血肉の結晶であるお金と使い道が同じではシステム上の問題と言わざるを得ない。
今の社会の最大の問題の一つがここにある。
金融が制限されれば、世の中はもっと平和にさえなるだろう。
作る人と回す人
世の中は、作る人と回す人に分けられる。
作る人は、文人と農人と工人だ。
回す人は、宴人であり、商人であり、官人であり、金人だ。
この他に、衛人と政人がいるが、彼らはその他からの代理だ。
宴人は、虚構の世界で人を転がす。
商人は、物を転がす。
官人は、掟を転がす。
金人は、金を転がす。
回す人は、作る人に依存する。
作る人の成果の上に、自分たちの役割が回ってくるからだ。
作る人がいなければ、回す人はいらないが、回す人がいなくても、作る人はいる。
いや、作る人は必ずいる。
作る人は作ることに忙しく、回すことはあまり知らないし得意ではない。
農人はみんなの食べ物を作るため、政人や官人から保護されている。
文人は、言葉や表現で抵抗を試みる。
今、日本の社会を考えると、工人の立場は相対的に低く評価されている。
技術バカだからだろう。
反対に、高く評価されているのは金人だ。
彼らは、支配する術を知っている。
作らない者が作る者よりも力を持ち優遇される社会は、つまり歪んだ社会だ。
そして、我々は歪んだ社会に生きている。
アンバランスの地図
誰か働く量と成果、その分布について地図を描いてくれないものか。
それはアンバランスの地図となるに違いない。
忙しさのアンバランスは、拘束時間の差とともに相対的な意識の差に表れる。
成果を伴わない忙しさは、生産性と不必要な仕事を作り出すシステム上の問題にある。
アンバランスは基本的に解消できないのかもしれない。
あるアンバランスが解消されても新しいアンバランスが必ず生まれるからだ。
ただ、長い目で見ればアンバランスは常に解消される方向へ進む。
エントロピーが増大するように。
変動する中で如何に速やかに状況を洗練して昇華できるか。
要はアンバランスを見つけやすくすることでバランスを取りやすくするシステムがあればいい。
それには、透明化や視覚化が必須となる。
ほとんどの人は中間層であり、その多くがアンバランスに苦しんでいる。
弱者でないものが弱者のように振る舞い、強者でないものが強者の生活をいそしむ。
バラエティーでなければこの世界は維持可能でない。
ただ、そのバラエティーさは進化の側面であり、古いものの昇華と新しいものの創造から生まれる。
効率
仕事のために仕事をつくるシステムが効率的でないことは誰でもわかる。
が、古い制度というのは本来の目的よりも権威が尊重される。
時代の情勢とともに必然性が移り変わっているというのに。
保守と革新の戦いという構図ではどうにもならない環境の変化に我々は直面している。
つまり、制度が制定されたときの想定が変わっているということ。
既得権益、少数派の代弁。
政治の話をするつもりはないが、変わることが必要という場合は多々ある。
生産性が問われる分野においては、効率と効果を一つの指標にしなければ不平等を生む。
一方、効率化を批判する風潮もある。
効率を考えなくてもよければ、それは楽で幸せな物語だ。
効率化とは決して安易な道ではなく、苦心の末に導き出される道のことだ。
現代を生きるほとんどの人は、好む好まざるによらず、効率という名のエンジンに突き動かされているのだから。
別に効率主義を謳っているわけではない。
店頭に並ぶ弁当類が消費されずに大量に廃棄される問題などは、理念なき効率化の表れだ。
厄災の原因が効率至上主義にあったかどうかは知らないが、問題の解決は、行動と技術の進歩に頼るしかない。
資本主義経済体制
それがベストの体制ということではない。
それが現在にいたる歴史を背景として、今の世の中の情勢において最も適合したにすぎない。
強いものが勝者。
強者の哲学。
決して勝者が人間的に偉いというわけではない。
シルバー民主主義
同様に現在のシステムがベストというわけではない。
そもそも、それは手段であって目的ではないはずだ。
なのに、現在のシステムが至上のものであるかのように政治家は語る。
民意民意というけれど、何を持って民意といっているのか?
無知な大衆を導くことか?
自らの理想を実現することか?
システムの欠陥を正当化したり、都合のいいように解釈するのは、ある意味、悪に違いない。
政治、これが今の日本の実力ともいえる。
立派な人格や精神も、政治の世界では歪んでしまう。
そもそも、ウソをつけないと権力者にはなれないようだ。
現在の社会システムや既存の制度に対して世の中に様々な意見が共存するのは、誰も未来を予想できないからだ。
特異な点において未来がすでに起こっていたとしても、予想など誰もできない。
災いは忘れたころにやってくる。
それでも断定的に話をしたがるのは予想できないということの裏返しともとれる。
予想できないことに責任をとれない、取らなくても許容されるという現実の虚構。
色々な意見が導かれるのは世の中を見る視点が異なるからだが、だからといってしかるべき立場の人が、偏った視点から物事を見て特定のグループの利益を語ることがまかり通っている、肯定されている、のはなぜか。
言論の自由などというつもりはない。
要は、偏った視点は正常な人の視点よりも外側を見ることができ、気づかないことに気づかせてくれる場合があるからだ。
ノーマルが必ず正しい選択をする、ということはない。
世の中は広く複雑であり、人はスモールワールドを生きる。
ノーマルが行けない場所。
それは隠された自分自身でもある。
但し、エネルギーは分散すればするほどアウトプットは中和される。
今必要なことは、どんどん弱くなっていく今を守ることではなく、強い未来を作ることのハズ。
それには、未来に委ねず今を苦労するしかない。
やがていなくなる人間の楽観論ほど、未来を苦しめるものはない。
困難な状況では、今を楽しようとすればするほど将来の落ち込みとなる。
大きな世界であればあるほどバランスが重要となる。
バランスは方位と距離と時間軸においてとられなければならない。
先を見ないという行為は子供に見られる典型的な反応だ。
彼らに罪はない。
しかし、子供に選挙権を持たせることがいいなどとは誰も考えない。
子供は成長しなければならない。
子供は我慢することを教えられる。
そして、未来となる。
シルバー民主主義。
数の力は間違いも引き起こす。
人工構成が歪な時点で公平とは言えない。
国からの情報
わざとではないとしても、我々が入手する情報には様々な欠陥がある。
一つの理由として、出来るだけ立派な情報を提供しようとする仕組みがそうさせる。
結果、情報は、どっちつかず、万人をすべからく満足させようというものに仕上がる。
同時性を失い、当たり障りのない、妥協、灰色、保守的な内容。
ある種の洗脳のような安心感を与える内容。
過激化しないようにするための防止的な意味合いもある。
立場のある人が自由に発信してしまうと二次的な混乱を伴い、やはり、現実をないがしろにしてしまうから。
解釈
特に、アジア諸国との間で歴史問題に対する解釈が異なることは知られている。
いわゆる、「歪曲された歴史教育」だ。
他国側の問題として、みんなあまり気にとめていないというのが実状だと思うが。
しかし、このような問題は、いずれの側も、知りうる情報(相互に合意に至っていない情報や、意図的に選別した情報を含め)に基づき一方的な解釈をしているため、どちらも正しくない(不十分)ということを、我々は経験的に知っている。
この問題には、自国の利益や名誉を確保しようという意図も働いている。
導き出される答えは、我々が教わってきたことは不十分な内容を含むにも関わらず、それがあたかも正しいものとして伝搬されるため、自然と正しくないことも正しいと思ってしまっている可能性がある、ということだ。
教育にはどうしてもあいまいさを排除するような傾向がある。
情報として受け取るだけであればいいのかもしれないが、二つに一つの解釈を強要するとすれば、すでにその時点で間違いが起こっている。
教育
専門家ではないので教育について語るつもりも知識もない。
ただ、一般人として今の教育が抱えている矛盾や問題については関心を持っている。
まともなことを言っている教育関係者がいる一方で、勘違いに毒された教育関係者がいることを知っている。
人間的に未熟でも教師になれるということ、教師が決して偉いわけではないということも。
社会を作り上げる背景として教育が果たしている役割はとてつもなく大きい。
だが、そこにはどうしても不完全性と不条理が混在する。
建前は別として。
大人のエゴは子供には理解できない。
理解しようもない、心に刻まれるだけだ。
大人の保身は停滞を呼び込むだけでなく、負の遺産として次の世代へ引き継がれていくことになる。
形骸化した学校での道徳の教え。
誰が正しく教えられるだろう?
誰が正しく身につけられるだろう?
ゆとり教育
ゆとり教育はあだ花だったのか。
既に過去のものだし、その分析もなされていると思うが、この政策について思うことが一つある。
比較してゆとりのありそうな欧米の子供たちへの教育を意識したとすれば、その前提において間違っている。
それほど意識していなかったとしても、うまくいかなかった原因はそこから類推できる。
つまり、欧米の合理的な社会制度やその背景と日本のそれとの違いが、この試みが成功しない(しなかった)理由を説明している。
ゆとりを持たせ個人の自主性や多様性を大切に考えるといっても、対象となり実行する人たちの精神が合理的ではないのだから同じ結果は当然得られない。
依存の文化が主流を占める日本で、しかもぬるま湯の中で育った今の日本の若者世代には、自主の精神が明らかに不足している。
ジレンマ
分かってはいるが、一人では何もできない。
みんな動きだしそうにない。
方向性が見極められない。
様々に拡大した世の中で、人の価値観や考え方も多様化している。
意識的なブレーキ。
情報が氾濫する中で、他に知るべき、学ぶべきものがあるに違いないというあせり。
エゴ
政治というシステムは、その場所に当事者同士では解決できない問題があるから必要になる。
なのに政治自体が紛争のもととなり、当事者の問題が二の次になる。
車という乗り物は人間のエゴの器だ。
自動車関連の死傷者数は、だれが何をいっても、それでも自動車を受け入れる我々人類への烙印だ。
見る
下を向いていると楽だ。
回りを見ないから。
大局的見地で、というが、問題はそれを持とうとしない、できないところにある。
だから思い通りに行かない局面に遭遇すると、わかっている範囲において手探りを始める。
発想が束縛される。
全てを見ることはできない。
見たくないものもある。
何を見るのかはその人の自由に違いない。
だから謙虚さが求められ、意志と責任を問われる。
社会
スモールワールドと拡張世界
それらは対比される世界であり、絶対的なものではない。
人は成長とともにその世界(スモールワールド)を広げる、通常であれば。
拡張世界(エクステンデッドワールド)は常に拡大し続けている。
スモールワールドと拡張世界は同次元にあり、ときに共存する。
限定された経験に基づく自分だけの正義を高らかに主張できるのはスモールワールドにおいてだけだ。
それを拡張世界で主張する行為は、勘違いかエゴ、あるいはパフォーマンスのどれかだ。
主張すること自体はいい。
問題なのは拡張世界に出会って何も学ばないことであり、スモールワールドにおける自分の正義を傲慢に行使しようとすることだ。
国々、宗教、組織、団体、会社、役所、そして、個人。
いずれも、スモールワールドの延長線で知らない世界を定義しようとし、世の中に矛盾と混乱を発信する。
異なる世界ではルールも、その意味も異なる。
世界は広く、人間は常に未熟だから。
スモールワールドで生きている中で、我々が日本というスモールワールドでいま生きていることが、いかに多くの幸運の上に成り立っているかということを自覚し、先人に感謝するべきだ。
ときには立ち止まり周りを見てみるといい。
立ち位置をずらしてみる。
感性を解放し自分の力で考えれば、少し趣の異なる別の世界が目の前に広がる。
日本人育成プログラム
日本の会社、特に伝統的な会社は、非常に高度に整備されたサラリーマン生成プログラムを備え、運用している。
それは、会社の前提としての、また、会社のシステムとして根幹を成すものでもある。
ドライな言い方をすれば、日本には、日本人養成プログラムというのがある。
社会や家族の在り方、道徳、教育、行政、司法、文化、伝統、それらに行き渡った巨大なシステムだ。
人為的な面もあり、そうでない面もあるので、この場合は生成ではなく、育成プログラムだ。
核家族
核家族という言葉を初めて聞いたのは、小学校の時だった。
ある意味、社会の変化の象徴として、そして、訪れる新しい社会への警鐘として記憶している。
社会は、個人レベルでは有無を言わさず変わってしまった。
選択肢などないような、変化であった。
かつての形態に戻るべきだとは言わない。
しかし、今振り返って、失ったものは非常に大きい。
時代の寵児
人の能力に大きな違いはない、という。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
人が共通に持つ基本的な能力の大きさの部分と、個人に依存する能力の大きさの部分を比較すると、そうかもしれない。
一方、個人に依存する絶対的な能力(容姿、体力、頭の良さ、性格)というものはあるし、その部分が社会生活において大きな差異を生じさせる一因になることを考えれば、そうでないかもしれない。
個人的な能力に大きな相違がないとした場合でも、社会は、ピラミッド型の組織を維持するために人の選別を行おうとする。
時代に愛され、能力に恵まれ、王道への入口を見つけた者は、その処世術と相まってピラミッドを上へ上へと登ってゆく。
特に、子供のころからの成功体験の蓄積は、その延長としての実社会における成功のパターンともつながるものがあるだろう。
ただ、いわゆる成功者たちが変革者となるわけではない。
社会の変化において改革を推進する者は、むしろ王道ではなく亜流を巡って来た人たちだ。
時代の命運にシンクロし、新しい世界を開拓する人。
寵児。
そのような人は、既存の枠に捉われず、一本の線を自分で引くことができる人だ。
いずれにしても、運命を別にすれば、実社会で差異を生じさせる大きな要因の一つは、育った環境において獲得される実務的な対応能力にあるかもしれない。
坂本竜馬が現代に産まれたとしたら、彼はどのようにこの時代を生きるだろう?
産まれ持った才で頭角を現すかもしれないし、地に埋もれるかもしれない。
時代性と環境が同じではないからだ。
個人的には、そのような才に恵まれた人物は、この時代でも変革者としての活躍を期待したい。
自己否定
誰もが自己否定を恐れる。
(自己を否定することは基本的にだれもできない)
禅問答は価値観の否定から新たな価値を見つける手法だと聞いたことがあるが、自分の価値観を否定する行為を自ら行うことは通常ない。
自分を守ろうとするのが本能的で自然な行為だ。
だから、価値観が異なるもの同士は、基本的に合意しあうことはない。
折り合いを探る、関係を持たない、力関係でバランスを保つ、ことになる。
排他的な価値観は、とくに厄介だ。
ただ、考え方によっては、個人ベースで分かりあえることはある。
同じ人間なので。
枠
分担、当番、なんとか委員。
学校の教育では、色々な役割を子供に割り当てて経験させることが普通に行われるが、それは子供の世界の話。
大人の場合は、自らの意思で何をやるか考えなければならない。
何らかの役割について、子供の世界ではそれがきちんと定義されているが、一般の社会ではそうでもない。
目的があって、その手段として役割がある。
役ありきではない。
人は自分の経験から枠を作り、なんでも枠にいれたがる。
しかも無意識に。
枠があれば、確かに整理に役立ち、思考がシンプルになり、共通の枠を持つ仲間と共有意識が持てる。
しかしそれは枠の中のはなし。
大人であれば、枠ありきで思考すべきではない。
大人なのだから。
アカデミック
学のある人の思考は、学で縛られる。
そして、学で説明できないことを軽視する傾向がある。
学問の目的がこの世界の究明にあるのであれば、学問はこの世界の一部を究明できているにすぎない。
しかも、それは仮定や想定に基づいたもので、言葉や法則というツールを用いながら、現実を紙の上に代替しようとしているにすぎない。
現実は、むしろ我々が知覚し想像するところにある。
否定者による肯定
否定者は否定することに価値を見出すわけだから、話をしても建設的な議論はできない。
ただ、否定者も肯定することがある。
食欲と性欲、音楽、黄金比率、そして、支配される者と支配する者の存在。
都会
都会にずっと生活していると意識しないかもしれないが、都会のポテンシャルは地方に対し比べようもなく高められている。
過去においてもそうであったが、都会には優秀な人間が集まる傾向がある。
人が多く集まり、利便性が高まり、知識が集まり、競争が生まれ、情報が集約され、新しいものが生まれる。
自らのポテンシャルを引き出し高めてくれる一方で、より過酷な環境において、長く、密度の高い労働を強いられる。
それでも人が都会に集うのは、それに見合う魅力があることと、ある種の使命感に後押しされるためかもしれない。
ミクロとマクロ
ミクロではみな善人。
いさかいや紛争は、世界が広がっていくに従い増加する。
世界が広がっていくにつれ、人は恐怖心を抱く。
恐怖心を排除することは永遠にできない。
恐怖心を克服するために神の力や権力に頼るとするならば、大いなる矛盾と不均衡はなくならない。
一方でグローバル化は既成事実であるとともに、止めることのできない水圧のようなものだ。
如何に法則を見つけて流れを制御できるか、そして、どのような覚悟で臨むのかが問われる。
マクロで方向が決まっても、社会はミクロで築かれる。
新しい局面
根幹を強化することに異論はない。
しかし、失われた理想を嘆いても仕方がない。
彼らの中では世界の中心はいまだに日本のようだ。
相対の変化が必然であることを理解しない。
立ち位置は動く。
中心を世界に持ってこなければ、袋小路の罠に陥るようなものだ。
新しい状況というのは従来の理論が当てはまらない局面を指す。
必然としての保守はその宿命ゆえに新しさを否定する傾向を持つ。
しかしそれでも、オープンにしておくべき引き出しを持つべきだ。
事例1-福島原発
リンク参照。