サラリーマン一般理論
サラ忍マン
cf. 新田たつおサラリーマン
サラリーマンという言葉は日本人が作り出した造語だ。
歴史的な言葉の成り立ちやオフィシャルな定義(あったとしても)は別にして、その悲哀を帯びた言葉の響きから読み取られる意味合いをここではサラリーマンとして用いる。
日本の労働者の大半を占めるのがサラリーマンだ。
サラリーマンになりたくなかった人がサラリーマン以外になれずにサラリーマンになる、というような解釈がある。
そうかもしれないが、ここではそれは重要ではない。
重要なのは、何を為すかだ。
組織の一員として個人に脚光が当たることはないとしても、歯車の一つとして黙々と言われた仕事を行うにしても、サラリーマンには人それぞれに気概があるはずだ。
成長曲線
サラリーマン人生の横軸に時間、縦軸に能力をとる。
成長曲線は、通常、右上がりの単調増加を示し、年をとるほど増加は小さくなる。
ある時点でできることは、そのカーブの下側の範囲の仕事となる。
カーブに沿ってある時点から将来の時点をみると、すなわち、現実と理想の関係になる。
現実と理想とのギャップは、精神論や妥協ではなく、リソースの確保と最適化で対応しないといけない。
個人について見れば、ある時点においてカーブから大きく離れたことを期待するのは、夢想、あるいはドリームということだ。
ところで、人は常にその能力以上を求められる。
現状維持は後退であり、人は時間軸で常に成長することを期待される。
実際に、人は、仕事の途上で成長する。
そして、成長を促すためにも、一段上の仕事を要求されることになる。
現在にいる限り現実をしっかりと見つめ、足場を固める。
とどかない理想を嘆いていても仕方がない。
今、何をすべきかを考える。
理想は未来にある。
落とし穴
AポイントからBポイントへ移動する際に、経験が不足する者は、容易に落とし穴に落ちる。
トラップというわけでもないが、経験のないものは穴に気づくことが難しい。
落とし穴は、そこに落とし穴があることを知らないから落ちるが、注意して見ると他の場所と異なる特徴があったりする。
経験を積んでくると、落とし穴ができているいる場所のパターンが見えてくる。
一般的には、3年で仕事を覚え、何でもできそうな気になる。
そこで、よく穴に落ちる。
いい仕事をするには、5年が目安といえる。
経験と知恵
物を作る仕事では、誰かから聞いたり本で読んだ立派な教え、格言、人生訓等は、自分の経験を追認するのであれば役に立つが、知識として持っているだけでは意味をなさない。
喋ったり書いたりできても、それが金儲けの方法になっても、物を作る仕事とはそういうものではない。
ベテラン
AポイントからBポイントへの道のりが、もはや、難しいものではない。
落とし穴にもすぐに気がつく。
経験から学び、因果関係は自分の血肉となっている。
データバンクは頭の中にあり、三次元でものを考える。
ところが、落とし穴を発見した時のかつての感激やそのときの状況などは、もう古いさびれた記憶にしかない。
歳をとればとるほど、断定的な物言いをしてしまう。
ある意味、無意識に行動できるようになったのかもしれないが、感覚の相違の点で、若いエンジニアと話をする際の障害にもなってくる。
一般理論
気付き
コミュニケーションの問題とコンピテンスの問題
大きな会社と小さな会社の組織
成長曲線とパフォーマンス
エンジニアリング手法と工事手法の相違
プロジェクト体制と現場管理
スーパーバイザー、カスタマーサービス、現場監督
機械、サービス、営業、エンジニアリング
ボリュームと複雑さ
・・・・・
手がかり
生産性、差別化、マーケットリーダーシップ、人。
現状維持は、すなわち後退
プロセスの透明化
敵を知り己を知らば...
無知の知
去年よりも向上
タスク、責任、サラリーの相関
言われて動いたのでは遅い
難題には布石を打つ
社員は投資の対象
ツールの進化
組織化と持続的発展
共通のターゲット
プロフェッショナル
出荷品質と最終品質
ボトムアップ
コンピテンシー
継続可能性
役割と立ち位置
・・・・・
知る
知らないよりも知る方がよい。
知って何もできなければそれが実力。
知らなくて何もできなければ、それは後悔。
新しいこと
新しいことに挑戦することは、可能性を高めることになる。
その過程で、幅を広げ、知り、経験する。
変化のない世界ではそれが理解されにくく重視されないのかもしれないが、新しいことを知るのは時代の流れに対応するための必須条件といえる。
刺激のない世界は閉じている。
閉じた世界は平穏かもしれないが、世の中はそれほど寛容ではない。
考えること
考えることと同時に、余計な事を考えないことが肝要。
必要なことを覚え、余計なことまで覚えない。
何を考え、何に気づき、何を覚えるべきかに悩むものだが、実はそれ自体が仕事の一部であり、それを身につけていくということに仕事をすることの意義がある。
ラッキーの法則
仕事をする上で、自分がミスをする確率と、その作業の重要性の両方を見極めて作業にあたることが重要となる。
それにより、優先順位や重みづけ、つまり、スケジューリングと作業時間が変わってくる。
ミスをしない人はいない、と言われている。
実社会である程度経験を積めば、ミスが起こりやすい状況や、自分がミスをする確率が大体分かるものだ。
ラッキーは続かない。
それは、単に確率の問題だ。
重要度の低い作業は、見直しは必要ない。
重要度の高いものは、一回見直しをする。
重要度が非常に高いものは、2回以上見直し、更に、別の角度・視点からの検証を行う。
自分の弱点を知り、補うための努力をし、そしてミスをすることを前提に最善の対処法を考える。
ところで、歳をとると困るのが、ミスをする確率がだんだんと上昇に転じることだ。
つまり、同じ作業をしても、効率の上昇を期待するのは難しくなってくる。
望むべくは、経験を生かせる分野へ舵を切りそこで貢献することだ。
スピードと優先度
スピードが競争社会における最重要なファクターであることは違いないので、スピード感をもって仕事に当たることは常に要求される。
一方で、我々はいつも競争しているわけではない。
いつも早ければいいというわけでもない。
スケジューリングを行いバランスを取らなければならない場面もよくある。
そのような場合、協力者や相手のビジネスカルチャー、組織の違いにあわせられる柔軟性が必要となる。
スケジュールの各タスクには、本質的にある程度の幅が含まれている。
それを利用する。
もちろん、幅の振れを想定するためのセンスが問われる。
また、タスクの優先度は常に一定ではない。
期限が迫ると、優先度が上がるのは自然な現象であり、それを盛り込んで対応しなければならない。
余裕度
日々の業務に毎日ぎりぎりまで働く状況は、もはや制御されている状態とはいえない。
管理は余裕があって初めて可能になる。
余裕を持っていないと予定外のことに対処できない。
そして、予定外は必ず発生する。
工場でもないのに毎日定時に帰ることのできる仕事があるとすれば、別の意味で制御されていない。
リソースを100%有効に活用できていない恐れがある。
どこでバランスさせられるかという問題は常に存在するが、その問題自体が常に存在するために、そのことが当たり前に肯定されてしまっているようなケースが多々ある。
時間はリフレッシュやリセットに充てる必要もある。
発想の転換によるイノベーションがあるかもしれない。
現代人の心は、多種多様で混沌としたこの世界を生きるために、甘い安らぎを見つけなければ維持できない。
プラスα マイナスβ
我々の仕事を分解していくと、ある基本的なコンポーネントの複合体であることが分かる。
それぞれの基本コンポーネントは、入力と出力を持つ箱になっている。
出力イコール入力ではない。
そこに付加価値が加わるからだ。
入力として、ある要求が箱に入ってくるとする。
要求にはプラスの価値が付加され、要求をベースとして新しいものが出力される。
以上は当たり前のことだが、付加価値の意味について注意する必要がある。
通常、人は出来上がってくるものに対してある程度のイメージをもっており、それが出力されることを当然のこととして期待するからだ。
期待されたことをそのとおりに実行するのは、現状を維持するという点で最小限の行為と言える。
求められているのは、より良くするという意識だ。
現状維持は後退だということを忘れてはならない。
ここでいうプラスαは、更にαの価値を付加することを意味する。
ときどき、この箱の中でプラスαとともにマイナスβを行う者がいる。
理由は様々だ。
マイナスβはときに有効であるが、要求に対し、要求を満足させるどころか、別物になってしまうのが、このケースに当てはまる。
ビジネスでマイナスβをやってしまうと、仕事のコントロールがきかなくなる。
通常は、箱にはもう一つの入力、制御入力、が入り、このあたりをコントロールする。
依頼したことに対してプラスαで返してもらうと、そこに新たな満足が生まれる。
マイナスβは、仕事の基本フローに障害を与えるだけでなく、コミュニケーションに欠陥を生じさせ新たな問題のもとにもなる。
先の読み過ぎ
何事にも過敏に反応し、未知と無知という闇の中を自意識と自己満足という幻に促されながら手がかりもなくさまよう。
やがて霧が晴れたときに残るのは、迷走の跡。
相手を思いやりすぎるのか、相手に認めさせたいのか、あるいは落ち度を認められることを極度に嫌うためか。
いずれにしても、何もしないことが不安なようだ。
不安は疑心を呼ぶ。
もはや気配りではなく、気の使い過ぎの範疇。
決まってからの時間を短縮するために何手か先まで読み、読みに沿って既に作業を進めておく。
結果は、ほとんど読み通りにいかない。
しっかりと準備しておくことは大事だが、相手の出方が分からないのであれば、待つこともときには大事だ。
方向性を決めたり、情報交換や共通認識を持つための話し合いは、仕事における重要な位置を占める。
仕事である限り、個人で完結する仕事など芸能や芸術でもなければほとんどない。
関わりの中で仕事をする以上、その中に自分がいるわけで、自分の考え一つで迷走するのは相手を尊重することにはならない。
後片付け
後片付けができないのは子供のころの習慣に由来するのかもしれないし、特質なのかもしれないが、そうだとすれば、今更なのかもしれない。
5Sというが、言われないとやらないし、やっても中途半端にしかできない。
整理整頓や一仕事一片付けなどは、その人自身の仕事の効率だけでなく関係者とのかかわりにおいても大きな意義を持つ。
やらないと周りが迷惑する。
整理整頓ができない者は自分の嗜好に偏る傾向があり、順序だてた仕事の進め方、細かな仕事や仕上げを不得意とする。
ルールが二の次となり、感覚的で情緒的な面が出やすい。
その性向は独りよがりや思いつきにつながる恐れがある。
それは個性なのかもしれないが、その逸脱が意味するのは全体的な視点の欠如だ。
一歩違えば、わがままな大人ということだ。
ただ、そのわがままな大人がかつ目するような価値ある仕事を為すのであれば、多少の迷惑は被ってもいいだろう。
が、周りの人間はこの問題を過小評価すべきではない。
後片付けが出来ない、整理整頓が苦手な人間は、多くの場合、頭の中の整理も得意ではないはずだ。
コンピテンシー
知識や知能の多寡よりも、実務において成果を上げるのはコンピテンシーらしい。
頭のいい人や知識が豊富なことが直ちに仕事の成果に結びつくわけではないということに大いに同意するが、コンピテンシーがあれば何でもアリというわけではない。
新卒で入社した時に会社の人事担当者が言っていた。
入社時の印象や評価で目立たなかった人が、将来、思わぬ活躍をしたりする。
人に色々あり、仕事の進め方にも色々ある。
最初に目立つものが結果を残すとは限らない。
人それぞれにどのように能力を発揮するかが重要であり、我々は結果を問われている。
限定合理性
知りたいと思っても知り得ない。
一方で、時間はどんどん進み、置いて行かれないように何かに納得しなければならない。
自分の中で整理できなくなる。
対処できなくなる。
そうすると、人は限定合理の柵に無意識に鍵を掛け自らを閉ざそうとする。
知り得ないこと、見えないことに対して無関心になってしまう。
知り得ないことや見えないことに対しては何もできないかもしれないが、尊重することはできる。
我々は世界の一部だ。
暗黒世界は自分が作り出した自分の中の幻想に過ぎない。
100分の1の理論
100人の社員がいたら、みんなその100分の1のパフォーマンスを求められる。
つまり、会社のパフォーマンスが100だとして、自分はその100分の1のパフォーマンスを発揮することが求められている。
但し、実際はベテランと新入社員ではパフォーマンスに差がある。
ベテランは、1.5のパフォーマンスで、新入社員は0.5かもしれない。
だから新人は、早く1のパフォーマンスを発揮できるように努めないといけない。
そして、1になってからいくら伸ばせるかを問われる。
もちろん、給与や職責との相関もあるが、基本的にすべての社員は100分の1のパフォーマンスを求められる。
例えば、社長は1人しかなれない。
だからそれは、1人分の仕事にしかならない。
1人1人にそれぞれの役割がある。
希望的観測をする人々
そうだったらいいのにな、という発想。
現実を嘆き、茶化し、文句をいい、仲間内で慰めあい、妥協の雰囲気を形成する。
そんなものは何も生まない。
建設的な発想にしか解はない。
変える、よくする。
当たり前だが自分が行動しない限り自分を取り巻く環境に変化は生じない。
嘆いても文句をいうな、慰めあうな。
現実を直視し、受け入れ、なおそこから進むしかないのだから。
基本原則
プロ意識
我々はお金を対価として仕事をしている。
誰が何と言おうと、それは前提としてある。
お金は会社から支払われるが、お金の出所はお客さんだ。
契約金額にはサービスの費用も含まれている。
お客さんが支払うのは、最終製品のパフォーマンスに対してだけではない。
サービスも商品であり、それは付加価値ともなる。
お金をもらって仕事をしている以上、それに見合う結果を出さなければならない。
素人がやって同じことができるのであれば、それはビジネスにはならない。
プロセスは大事だが、結果で評価されるということを肝に銘じないといけない。
継続性
維持可能かどうか。
継続できなければビジネスにはならない。
表現に表れなくとも、そこまでの積み重ねがなければその表現には至らない。
細々と継続される下地にこそ、プロとしての実力が隠されている。
ベストパートナー
高いけど、他がないから仕方なく頼む。
あるいは、他を知らないから頼む。
機械は良いけど、サービスが。。。
どう考えても、作業内容(パフォーマンス)に対して高すぎる。
ユーザーとのこのような関係は、決して幸福なものではない。
相手が誠実である限り、目指すべきは、ベストパートナーだ。
仕事の仕方
どのように成果に結びつけるかは、はっきり言って人により手法が異なる。
性格や経験値、情報量や能力、環境やリソースが異なれば、アプローチも異なってくる。
もちろん、押さえどころは押さえなくてはいけないが、画一的に指導するのは画一的な教育と同じで最適ではないし、平等でもなく、弊害さえ生じる。
人により手法が異なるのは、仕事に要求されるプロセスの透明性や共有化/共用化、単純化、標準化、効率化という括りに対する、個性としての抗いでもある。
責任の取り方
責任を持つと、責任を取る、とでは意味合いにおいて大きく違っている。
責任を持ってやるからいい仕事ができるのであって、後になって責任を取ってもらっても、後悔先に立たずというものだ。
委任したといっても、丸投げでは責任放棄と何が異なるのか。
責任を取ることがないように、覚悟を持って仕事をすることが、責任を持って仕事をするということだ。
対価
お客さんはお金を支払っているのだから、その対価を提供しなければならない。
お客さんは、ときに過剰な対価を求める場合もあるが、お客さんの特徴に合わせてそれを織り込んだ上で多少は応え、怒らさせないのがポイントだ。
そこには営業戦略的な意味もある。
では、サプライヤーに対し過剰な対価を求めるのはどうか?
それは、道義的な意味ですべきではない。
時間厳守
会社で時間を守ることは、社会契約のうちの一つであり基本事項といえる。
会社はその人の社会の大部分であるわけだから。
自己管理と関連し、組織運営の上での要点になる。
リスクコントロール
リスクが制御できるものかどうか。
リスク認知をせずにリスクが制御できるだろうと思って行動に移るのはプロのやり方ではない。
リスクを知らずに手を出すことほど怖いものはない。
トライアンドエラーの使い方を間違えてはいけない。
適所適材
お客さんのことを考えると、適材適所ではなく適所適材なのだろう。
この意味合いは大きい。
ビジネス成功の分かれ道とさえいえる。
ケースバイケース
その都度、相手を知り自分を知らなければ勝負にならない。
基本スタンス
ポリシー
勝つか負けるかではなく、フェアかフェアでないか。
勝ち馬に乗らない。
縁があれば関わり合う。
押さえどころ
言われたからやらなければならない、ではなく、必要だからやるという観点から物事に取り組まないといけない。
自分として押さえなければいけない点をいくつ持っているか。
知らないものどおしの議論
知らないものどおしが知恵を出し合っても知れている。
知らないものどおしが議論しても、そこから得られるのは半端なソルーションであったり、責任の不明確な、ミスリードさせてしまうような自己満足と妥協の産物だったりする。
成果よりも、時間と労力の浪費の方がずっと大きい。
後退しさえもする。
調べるか、聞くか、頼むか、あるいは待つか、何らかの、知る、ためのアクションが必要だ。
同時に、不十分な情報に基づき議論しても道は開けない。
また、同じような考えや知識を持っている人たちが議論しても、限定内の合理性を超えられない。
はたまた、否定や保守、夢想や閉鎖性は議論の障害となる。
議論は道筋を立てるための手法。
追認ばかりでは枠を超えられないばかりでなく、偏った選択や現実離れした結論を招く。
サラリーマンである限りプロフェッショナルであり、プロである以上、期待以上の成果を求められる。
自分の言葉を持ち、自分の言葉で話して初めて議論ができる。
ネクタイ
ネクタイは首を絞めているわけではない。
身を引き締めている。
厳しさ
仕事を楽しむという考え方もあるが、仕事ができなければ楽しむに至らない。
仕事を楽しんでいる人がいれば、そのおかげで苦しんでいる人がいたりする。
自分が思っているように仕事ができればそれは楽しいことなのかもしれないが、それは同時に墓穴を掘っているのかもしれない。
仕事の負荷が成長曲線を下回ると、成長は促されない。
残念ながら、人はもまれなければ強くなれない。
強くなければ、厳しさに晒されて繕いの表皮を身にまとう羽目になる。
建前は慰めに過ぎず、修羅場を経験してようやく深みが増す。
プロとして仕事をするということ、お金をもらって仕事をするということ。
苦労していない者などいない。
仕事に厳しく臨み、自分を正す。
それ以外のサラリーマンの生きる道など知らない。
ツールの進歩と仕事の理解
仕事の仕方はITツールの進歩により劇的に変化した。
ITツールの進歩はまさに革新的で、会社はいかにそのツールを使いこなすか、あるいはその変化に対応できるか、存亡をかけた対応に追われる。
仕事のプラットフォームは統一化され、標準作業が進み、組織はより分担化され、透明化されていく。
取り扱うデータの量は膨大となり、日々多くのデータと格闘しながら素早く適切に情報を処理することが要求される。
コストダウンという名のもとに合理化が進み、単純な(と思える)仕事は、効率化の名のもとにルーティーンワーク化してゆく。
個々人に求められる能力は様変わりし、事務的な規律に対しての追従が重視されてくる。
経験を積まなければいい仕事ができないという前提は、急成長を求める会社や経営の観点からは、阻害要因にさえなる。
ある意味、産業勃興期の労働集約型産業における労働が、ITを使った労働に置き換わったようなものだ。
たとえそのような前提に立ったとしても、あるいはそれが時代の流れであったとしても、仕事にたずさわる個々人が、自分が扱っている「もの」について理解し、自分が全体のシステムにおいて有機的にどのような位置づけであるかを把握することは依然として重要だ。
そうでなければ、より「いい仕事」はできない。
中途半端はいつでも嫌われるが、それぞれの専門知識が組織内で分散するような傾向の中では、間違って理解するよりも、むしろ無知を知っていることの方がより大きな意味を持つ。
現在の労働においては、仕事とビジネスツールそれぞれの正しい理解がより一層求められている。
仕事の手順と裁量
似たような結果を導くにも、そこに至る手順が異なることはよくある。
個人レベルにおいてもそうだが、組織レベルにおいてもそれは言える。
ある作業の手順がある。
その手順は計画的に最適化されてきたというよりも、大抵、文化や習慣、要求度合い、環境、歴史などの影響を受けながら、発展段階で自然とその形に収束してきたものだ。
しかも、発展は継続的だ。
似た者同士でも身に付けた手順が異なれば融合は難しい。
自らの価値感を優先しようとするからだ。
それは生活習慣や文化にも似ている。
いいか悪いかではない。
しかし仕事においては、競争に勝てるかどうかを常に問われる。
世の常として、産業や業界が成熟すればするほど、仕事は標準化されマニュアル化される。
マニュアルで仕事をすることに慣れた人は、マニュアルがない世界で路頭に迷う。
原則に立ち返り、原則に則ってことに当たるのが本来の姿だ。
指標はマニュアルにではなく、目的にある。
オーバーロール(囚人のジレンマ)
ほとんどすべての仕事は、サラリーマンであればなおさら、自分がやっている仕事は全体の中の一部分を構成しているにすぎない。
ゆえに、全体を見なければ部分最適化の徒労に陥る可能性がある。
例えば、機械を知らない人は機械の取り扱いについて見えないしイメージできない。
見える範囲の仕事に終始し、一連の仕事の流れや引き継ぎを阻害する恐れがある。
本人が意図しないにしても、結果として調和は乱れ、本人が認めるかどうかにかかわらず、それが言い訳になる話ではない。
結果というのは、全体のプロセスのアプトプットのことだ。
確度を上げようと自分のできる範囲でいくら細かくやっても、それが全体の一部分である以上、全体との調和がなければ歪さの原因となりうる。
ベクトルは拡散し、リソースのバランスがくずれ不協和音が奏でられる。
つまり結果に結び付かない。
しかるべき地位にあれば、求められるのは部分の最適化ではない。
正解
きれいな解を追求し、泥道や水たまりを厭う。
その結果、決断が遅れ、後手に回り経験値も上がらない。
脇道、回り道、道草。
好奇心からくる泥臭さやこだわりが、ときに想像を超えた創造や成果につながる。
正解ばかりを追っても必ず邪魔が入る。
現実の世界において評価されないばかりか、事を為すための障害ともなる。
目印
自分の立ち位置に迷いが出てきたとき、何を目印として座標を知るか?
情報、経験、信条、感性、専門家や経験者の意見、啓蒙書、営業、顧客、本社の方針、将来、理想、、、、。
忘れてはならないのが現場の実務的な知恵。
そこには現実と将来の接点がある。
仕事のサイズ
仕事のサイズが大きくなれば、それだけ慎重にならないといけない。
失敗したときの影響が大きいからだ。
しかし、仕事のサイズが小さくても、やること自体が大きく変わるわけではない。
変わるのはボリュームであって、抑えるポイントを抑え、必要な手順を踏んで同じようにやらないといけない。
基本原理
グッドジョブ
つまるところ経験を積んだ優秀な人間をそろえないといい仕事はできない。
また、経験を積めば積むほどいい仕事ができる。
経験と成功イメージ
地位が人を作るという。
確かにそうだ。
経験すること。
それが何より。
成功のイメージが出来上がれば、それは身の寄せどころとなり、知らないものよりも絶対的な有利となる。
二八の定理
十人いると、会社に本当に貢献しているのは二人で、残り八人は恩恵を得ているだけだという話がある。
ある意味当たっているかもしれない。
二八の定理はいろいろな所にあてはまる。
多数決ではない。
あやふや
あやふやな部分があって気になるが、かまわないだろうと先に進めると、そこが後で問題になったりする。
平行して別々のところと確認を取るとき、一方からの返事に基づき作業を進めたところ、他方から待ったがかかる。
気にはなったが誰も指摘してくれないのでそのままにしていたら、後で大きな話になったりする。
あやふやなものをそのまま制御することはできない。
間違って解釈することも避けなければならない。
あやふやを取り扱いができる形に見える化し、如何に最小化したり排除するかが仕事の生産性につながる。
トレードオフ
プラントエンジニアリング会社のエンジニアは、そこで教わったエンジニアリング手法やプロジェクト管理手法に感銘を受け、他の分野にその手法を適用することでビジネスを広く展開できないものかと、そういう思いに至る時期がある。
関係会社や規模の小さな会社へ自社の手法を押し付けたり、それが全ての基本になっているとばかりに盲従したりする人もいる。
それは、万能ではない。
ビジネスがバラエティーに富んでいるように、同じように見えても中身は様々だ。
規模、複雑さ、専門性、安全性、要求品質、環境、継続性、保全性、コスト。
要求に対し付加価値を供給できなければ、ビジネスとしては成り立たない。
現実は、全てに優れることはできない。
そこにはトレードオフの関係があるからだ。
カスタマイズと標準化
リソースと工期
品質とコスト
自動と手動
マニュアルと裁量
設計と工事
オープン化とクローズ
経験に頼り過ぎるとマイナスの面もでてくる。
品質
最先端の技術力とか品質というけれど、それは一部のトップの企業群によるものだ。
その流れやおこぼれがあったとしても、それで生きていけるのは限られた企業にとどまる。
トップを維持するための裾野展開かそれとも取捨選抜か。
いずれにしても、トップ企業に依存した高品質と技術力だけでは、裾野企業の世界に明るい未来はない。
ITと標準化
メーカーの立場として標準品を売ることを第一義とすることに異論はない。
標準外の対応には時間も手間もかかるし、対応するためのリソースも必要だ。
標準外というリスクを取ることにもなる。
ITが当たり前になる以前の世界では、現場の裁量が何よりも重要だった。
現場で解決することが重要だった。
それが当たり前だったのが、今では専門部の決済が必要になっている。
能力の分散とともに。
ITの世界ではプログラムコードが社会の流れを支配する。
効率的であるためには、例外を極力なくさなければならない。
例外を処理することは人に残された仕事の一つであるが、それを扱える人の減少と不慣れさの増加という現実が、更なる効率化を欲求する。
カスタマイズは例外の一形態のようなものだ。
標準化はコストダウンの申し子となり、カスタマイズはコスト浪費の根源として肩身が狭くなってくる。
合理化された会社でカスタマイズの要求が嫌われるのは、それが標準化とトレードオフの関係、というよりも二乗反比例の関係にあるからだ。
想定する一連の作業の流れを妨げ、更に、対応する人間が標準外に対しどう対応すればいいか戸惑ってしまって機能がフリーズしてしまう。
カスタマイズ
しかし、だからといって例外を軽視してはいけない。
プラントにしろ機械にしろ、カスタマイズが必然となるケースは多い。
では、カスタマイズの要求に対してどう対応するか?
世の中の流れからすれば我々は意識を変える必要があり、標準化が我々の目指す道かもしれない。
しかし、少なくとも、今、ここでは違う。
忘れてならないのは、標準化やカスタマイズというものは手段(ツール)であり、目的ではないということだ。
標準化が進んだ場合においても、カスタマイズを実行できるリソースや実行するための会社の機能は有用であり、イノベーションや商機展開の手助けにもなる。
業務遂行時の問題解決能力、アフターサービスにおけるトラブルシューティングやメンテナンスおいても必要だ。
我々は知っているように、何も問題の起こらないプロジェクトやプラントはない。
カスタマイズを要求する顧客が全体として少なくても、多分、彼らはマーケットのリーダーに違いなく、彼らを尊重しなければ我々も時代をリードするトップ企業とはなり得ない。
つまるところ、カスタマイズを受け入れる柔軟性が必要なのはもちろんだが、それを会社でどう位置づけどう活用するのかが問われている。
偏らない視点とマインドを持つことがなによりだ。
例えば、カスタマイズの手間やリスクをあらかじめ予算化できるかどうか、等々、それは、むしろマネージメントできるかどうかの問題だ。
例外というのは、成長のためにも必要な要素だ。
ユーザーの認識
確立された技術と、新しい技術に対するユーザーの認識の違い。
顧客は、既存で問題がなければ、それを継続したがる傾向がある。
一方、供給側は、日々、技術向上により他社との差別化を試みる。
いいものでも、特に使う立場から見れば、最初は不備の方が目立ち、抵抗感を持って迎えられる場合もある。
それを克服できなければ、継続も期待できない。
委任
仕事というものが一人では成り立たない以上、誰かに頼まないといけない。
会社が違えば契約で規定することができる。
社内であれば、そうもいかない。
同じ目的を共有するという前提に基づく信頼関係という想定。
頼んだ結果うまくいかない場合は、それが実力なのかもしれない。
一方で責任の所在のあいまいさ。
トラスト。
ずっとそうだった。
要は信じるに足りるかどうかであり、それは結果で示すしかない。
体系化
単純な話であるが、組織や業務処理を体系化すれば、誰が何をやっているかがすぐに分かり、無駄な重複作業を省くことができる。
また、指示系統が明確となり、顧客への対応もスムーズになる。
誰がボールを持っているかをはっきりさせ、対応が遅れていればそれを是正する。
相互協力、バックアップができる。
チームとして最適化をはかる。
それを、各人が勝手に解釈してしまうからうまくいかない。
人それぞれ立場が異なり、インセンティブや損得勘定も異なる。
まずそこを揃えないといけない。
仕事への関わり
自分の仕事と他の人の仕事を区別しないと現実として仕事は成り立たない。
責任をとれるかどうかということだ。
しかし現実として、興味だけで責任を伴わない、あるいは曖昧において労力が偏って費やされるという状況が随所に見られる。
原因の一つに、見えているようで見えていないという、近視眼的な人間の性質がある。
周りの動きと繁忙に惑わされ、大地に流れる潮流に気付かない。
全体を見て、将来の方向性を意識して初めて関わりとなる。
我々はダイナミズムの波の中にいる。
評価
原理として、それがなんであっても、差別化できるものが評価される。
地道な努力や積み重ねは必要であるが、実はありふれている。
技能や従順さは集合して量になってのみ評価される。
もちろん、このような評価は、人間に対する評価とは別のものだ。
正攻法
正攻法は、実績もある安定した会社の手法だ。
経験則、リソース、組織的バックアップがないと上手くいかない。
未来志向
未来をよくしたいという、あるいは未来がいいものであってほしいという強い思い。
それがなければ、改革への道筋は見えてこない。
マネージメント
顧客の満足
顧客からみれば、サプライヤーの社内の都合など関係のない話だ。
社内には様々な組織があり、それぞれにタスクと責任が分担されている。
だが、たらい回しにされたのではたまらない。
しかるべき責任を持つ者、部門の長であれば、その組織内のことだけを見ているだけでは不十分だ。
組織間の調整がそのタスクとして生じる。
顧客の満足の観点から考えるべきで、組織の利害にとらわれているとベクトルが分散されてしまう。
組織の優先が会社としての優先になってしまっては本末転倒というものだ。
もちろん、各組織はそれぞれに専門性や強みがあり、その強みが活かされなけば全体としての強みを得られない。
一方、全体としての強みを出すためには、専門性を超えた融合が必要だ。
管理職はその組織内の最適化を第一にするにしても、それだけでは不十分だ。
組織の構成員も、実行部隊として直接顧客に接するわけだから、全体の最適化を意識する必要がある。
個人的にベストを尽くすだけでも不十分。
顧客を満足させる、公平に。
顧客の方を向きすぎてもダメ。
その歪は実行部隊へのしかかる。
顧客の現場
我々は、メーカーとして様々な顧客を訪れ、いくつもの工場を訪問することができる。
工場ごとの設備や機器の仕様だけでなく、そこで働く人のポリシーやキャラクターに関しての多様性に触れることができる。
もちろん、他のお客さんの情報を別のところで公開するようなことはできないが、我々は、知り得た広い知識を有効に活用して、我々のサービスの質を高めることができる。
ただ、そこ(顧客の工場)にいかないと、顧客の本音はなかなか見極められない。
逆に、直接会って話をすると、我々の機械に対して有益な情報を入手することもできる。
個別に見れば、顧客は、顧客の担当者は、かなり閉じた世界にいる。
特に、生産現場で働いている人は、どうしても外の世界に触れるのが遠慮がちになる。
現場へ行って、初めて問題点について相談を受けたりする。
また、トラブル対応で訪問すると、別の問題を相談されたりする。
お金の点の心配もあるのだろうが、こんなことを聞いていいのだろうかというような、気遣いの部類に入るケースが多いと感じる。
しかし、問題に対し有効な手段が取られずに現場に負担が生じているような場合、現実問題として、我々の製品や仕事に対しての評価が低くなってしまうというような状況につながる恐れがある。
こうした状況への対応というのが、今、我々に求められていることなのかもしれない。
顧客営業
保守的な雰囲気の中におかれた顧客はリスクをどれだけ抑えられるか、という発想をする傾向がある。
だからメリットをうったえても乗ってこない。
このままではリスクがある、新しいことに関わるリスクは担保される、その対策手法に合意できる、といった対応が望まれる。
「サラリーマン機構というのはリスク管理システム」(隈)だから。
情報戦略としての客先近接。
ポジショニングとしての選択と集中。
マーケティングSTP。
業種や業界、顧客固有の特性に基づく営業スタイル。
営業重視か関係重視か?
いずれにしても、長く良好な関係が決め手となる。
Just Do It
JDIは確かなインフラの上ではじめて成り立つ。
インフラとは技術、クオリティー、組織、マネージメント等々。
まずやってみて改善する、という現場を尊重する意味合いがJDIにはあるが、改善しなければ何にもならない。
Doだけになっていないか?
プランニングとコントロールを合わせたサイクルが機能しないといけない。
Doに偏りすぎると、全体的な効率アップにつながらない。
速度
経営の速度とよく言われる。
背景として、社会におけるほとんどすべての何らかの取り組みに対する期間は、過去と比べ相対的に短くなってきている。
外部要因である環境の変化への対応、内部因子である組織の規模において、スピード感が重要なファクターとなってくる。
すなわち、変化において、そして、小さな組織において、スピードは生命線となる。
変化する時代における、大きな本社を抱える我々のような小さな会社は、従っていかにあるべきかを考えないといけない。
マーケット論理
会社の論理よりも、マーケットの論理。
マーケットが変化すれば、会社も同じでいいはずがない。
何よりマーケットを作りだせるかどうか。
代行
代行がきかない状況というのは、準備不足、リソースの育成の問題を伴っている。
株式会社
企業は株主価値の最大化のために常に成長し続けていかなければならないという使命をもつ。
規模の拡大が新たな発展やイノベーションを生むとしても、他方で社員の思いは?
マネージメントとしてそれが結果を出す明確な方法だとしても、安易ではないか?
危機感にさらされなければ堕落するのかもしれないが、やり方が他にないか?
トップが会社の方向性を判断するにしても、状況を正しく理解できているのか?
立派な経営理念があったとして、みんなそれを理解できているのか?
現実における矛盾をどう説明するのか?
行き過ぎ
トップダウンの行き過ぎは必然的に起こる。
ある状態から次の状態への変化に際し、動き出すためには運用する(動摩擦係数)以上の力(静摩擦係数)の入力を要する。
ある時点でブレーキをかけるとしても、行き過ぎを是認しない限り到達速度が落ちる。
最適とはある状態から次の状態へ移行する間にある。
落ち着いたと思ったら、それは次の状態への始まりであり、もはや最適を通り過ぎている場合が多い。
終着点とは、出発点と同様に偏ったものだ。
問題点を改善した直後は期待通りだったとしても、やがて全く別のものになってしまうこともある。
環境が変わり、人が変わる。
そのかじ取りがマネージメントに問われる。
トップダウンは嫌われるかもしれないが、必要な場面もある。
要は、トップダウンのスタイルを取りながら責任を取らないのでは本末転倒してしまう。
システム
全ての努力によっても改善が見られないような場合は、問題がシステム自体にあるか、適切なシステムが存在しないことにある。
それは、マネージメントの問題でもある。
本業
我々の本業は何か。
お金の動きが会社を差配する。
アカウンティングシステム。
メインの仕事ではない。
紙の段階で終わる仕事と紙から更にものを作る仕事との違い。
完成品としての意義。
投資
何か新しいことを始めるとき、あるいは何かの変化に対応しようとするとき、すでに確立している既存のプロセスの場合と同じような利益は望めない。
それが新しいビジネスであるならば、見通しと勝算があるならば、余分にかかるコストは投資の意味合いを持つ。
一度目よりも二度目の方が、仕事のハンドリングに要するコストは大幅に減じることができる。
機械の開発だけではない。
人への投資。
長期的視点とは人への投資のことだと思う。
しかるに、今の時代、短期的な会社の成長と中長期的な計画を同時に実現しなければならない。
厳しい判断が必要になる。
新規採用
採用時にネガティブな事情を説明するのはフェアの見地という理由もあるが、これまで、組織の都合や行き詰まりによって去らざるをえなかった人を多く見てきたからだ。
初めての世界、想定外、
状況に戸惑い、覚悟が追い付かず、もしくは訳も分からず苦しむ姿を見てきたからだ。
このような状況に対し、自分を含め、周りは驚くほど無力さをさらけ出すことになる。
組織は人により成り立ち、人と共に在り方を考えないといけない。
人の影響は理屈ではない。
コスト管理
各人のコスト管理意識の程度は?
原価分析による不要な出費の削減、非効率な労働の見直しは十分か。
コスト管理は、個人レベルにおいてコスト管理に対する意識と意欲が伴わなければうまくいかない。
商品の価格は需要と供給との関係で決まり、顧客が我々との取引きで利益を得るのであれば、たとえ高くてもそれは適正価格の範囲といえる。
競争力のある製品を持つメーカーの強みであり、利益を得ること自体は企業が存続する上での健全な経済活動だ。
では、我々は高価な機械に見合うだけの高い品質の仕事をしているか?
競争力を維持すべく貢献しているか?
いつも自問自答する必要がある。
インセンティブ
チャレンジングな世界では、特にインセンティブが大事になる。
自分で目標を立てて実行するのは、正直難しい。
だからこそ、上司や仲間の係わり、後押しが有効になる。
経営指標
マネージメントの分野で最近、KPIという言葉をよく見かける。
見える指標として大きな意義を持っていると考えるが、当然のことととして、それらの数値はアウトプットに過ぎない。
相対的な数値であっても、指標がすべてを表しているわけではない。
数値をよくするためにプロセス(システム)をいじるわけだが、数値をよくしようと思っていじっても結果はついてこない。
変革
一つの法則のようなもので、過去において不安視されていたこと、新しいこと、をやろうとすれば必ず反論がでる。
純粋な恐れ、善意の発露、あるいは個人が持っている保守的信条として。
ただ、やるということは、それらをひっくるめての話。
始めなければ何も始まらない。
我々の時代
今の時代
経済や企業が成長段階にあれば多少のミスよりも機動性や長所が重んじられる。
成熟した経済の場合、産業が飽和する中、古くから在る企業は事業の継続性を重視する。
ミスは命取りになる。
企業は、保守的な考えを抱く一方で、構造問題や外圧に対して徐々に経営の舵を切らざるをえない。
規制の新段階への移行を身近に感じるものの、備えに対しては、国を含めて身動きが鈍い。
効果的な方針を示すことができず、旧態を一掃できずに社内に歪みを抱える。
グローバル化による海外との競争は企業に脅威を与え、なし崩し的に海外への工場移転に踏み切る。
海外への技術の流出により海外勢との競争は激化し、国内は一層、疲弊する。
対処療法的な横並びの投資は、偏重による共倒れ的なリスクを招く。
身を削りながらなんとか永らえようとするが、明確な活路が見出せない。
グッドジョブ
いい仕事をすればいい、という時代は終わっている。
実際、そんな時代は近年においては一瞬しかなかった。
時代に立ち向かうには、いい仕事とは何か、ということを考えた上で実行しないと道は開けない。
不毛
要望以上、必要以上。
役に立つことなく処分される膨大な書類と過剰な対応。
一方で、防げない津波による原発被害と想定。
選択
なぜその会社に入ったのか。
なぜその仕事をしているのか。
好きなことが仕事にできれば、というが、
何をやりたいのか。
好きなことが仕事になるのか。
お金のために働かないといけない。
それでいっぱいいっぱい。
面白いのか。
楽しいのか。
そんなこと言われても。。。
サラリーマンはサラ忍マン。
みんな大人だ。
みんな耐えている。
支えている。
愛社精神
愛社精神なるものは、一般社員である以上、会社からの恩恵に対する見返りだ。
そこに金銭関係がある以上、大きな声で言えるものではない。
一方、会社からお金や機会をもらって仕事をしている以上、自分の利益を最大化しようとする考え方や行為は全く正当なものではない。
会社の利益とは何かを考えることは、一人の人間が社会で生きる上において会社に依存することのケジメのようなものだ。
達成感
達成感とは自己満足のことか?
任されて大きな仕事をし達成することで得られる満足感のことか。
顧客に認められ、喜ばれ、評価されることの優越感のことか。
では、心によぎるこの奇妙な不安は何か。
出来て当然ではないか。
同じようにもう一度出来るか。
もっと出来たのではないか。
他の人がやればもっとうまくできたのでは。
進化できるか。
顧客に不都合なことを黙っていていいのか。
何か見落としはないか。
後でトラブルが発生し迷惑をかけて評価を裏切ることにならないか。
これで本当にいいのか。
達成感という言葉を大きな声で言える人は、よほど自分の成果に自信があるのだろう、あるいは、不安を隠すための口実か。
我々は進化の過程を生きている。
つまり、ほとんどを未完成な戸惑いとためらいの中で生きている。
常に安心を求めている。
達成感のためにやる、ではなく、やり抜くという気持ちの強さ。
それがプロとしての矜持。
三年目のつまずき
最初の会社に入社して3年ほど立ったころ、一通りの業務をOJTで習得したので一人前になったとばかりにとあるジョブを担当した際、途中では全く気付かないのだが、後になって自分がミスを犯していたことが分かり、その後始末のために周りに迷惑をかけるということが何度か発生した。
一通りのことは分かっていても、まったく同じことをしているわけではないので、ちょっとしたことを見過ごした結果、後々に問題となってくるケースがある。
顧客に迷惑をかけた場合は上司とともに謝りに行き、頭を下げてくれる上司に感謝したものだが、同時に、なぜ上司は問題を未然に防ぐべく設計段階での照査を行わなかったのかと憤りを感じたものだ。
仕事をそれなりに身につけるには5年かかるといわれる。
先輩のエンジニアはそういった陥り易いポイント(落とし穴)を経験から把握しているので、若いエンジニアに仕事を任せミスが生じたとしても、それが問題となる前に指導的見地から適切に指摘をして是正することができた。
そういう組織上のバックアップシステムが普通は働く。
ミスは起こるべくして起こった。
問題はそれが表面化するまで放置されてしまった点にある。
立場が上の責任ある者の取る本来の責任の取り方とは、問題が発生した際にそれを謝りに行くということではなく、問題が起こらないように目を光らすことではないか。
実は、これは日本的な組織の日本的な考え方であり、欧米のフラットな組織ではこうはいかない。
だから、日本の強みでもある。
未然
問題が起こった後の処理よりも、起こらないようにすること。
事前に十分気をつけたとしても、トラブルを無くすことは困難だ、という意見がある。
それはある意味、言い得ている。
トラブルを想定することが困難な場合もあり、起こるかどうか分からない将来のトラブル、あるいは未知のトラブルに対し、確実に発生する今のコストを予防のために費やすのは、誰しも慎重にならざるをえない。
では、トラブル処理に当てるコストと、予防に当てるコストのどちらが高くなるか?
トラブルにより失墜したメーカーの信用と、生産中断を余儀なくされた顧客の痛手は?
トラブルが集中するという現象は単に運が悪いとかの問題ではない。
ある状態変化により状況が不安定になっているところ、つまり弱っているところへ、既に内在していた問題が表面化することから起こる。
元々健全な状態ではなかったわけで、体質が問われても仕方がない。
ところで、トラブルが起こってから解決する手腕と、トラブルを未然に防ぐ手腕のどちらが優れているか?
派手なのは前者であり、後者は目立つことはない。
中間職
社内で立場的に中間に在り、上と下からの板挟みで気苦労を重ねる中間管理職なる人たちがいるが、一般的に言えば、年功序列的な体制のもと、社内的な秩序は守られている。
一方、他社との関係において、エンジニアという職種は、メーカーや下請けとエンドユーザーである顧客の間に在る。
そこでは容易にバランスが歪められる。
優越的地位の乱用とまでいかなくても、正常とは思えない商慣行がまかり通る。
特に、高圧的ともいえる上下関係。
受け入れざるを得なくても、染まるか染まらないか、という視点は別に持つべきだ。
特に、メーカーや下請けに対しては、自分が何とかすれば制御できる話だ。
足るを知り、おごらず謙虚に臨むべき場面であるが、意識しなければその場の空気に流されるかもしれない。
商習慣としてあったとしても、踊らされる姿は周りから見ればみっともないに違いない。
少なくともエンジニアは、いつも相手と対等であるべきだ。
仕事の位置付け
マズローの欲求5段階説では自己実現欲求が最も高次に位置付けられる。
社会人になれば最も時間を割かれるのが仕事だ。
ただ、仕事を通して自己実現しようと思っている輩はあまりいない気がする。
ほとんどが打算であり、従属的なのではないか。
では、何のための仕事なのか。
強くあるには、成長するには、将来をよくするには。
そういうことを共感できる雰囲気を形成する一助となるために、我々はもっと頑張らないといけないのだろう。