サラ忍マン組織論
一般論
成熟を経て
産業が成熟を経て下降期に入ると、どこでも決まって同じ問題が沸き起こってくる。
構造問題だ。
国際競争力の相対的低下、内需の減少、高齢化、マインドの減退、等々。
会社は成長余力に限りが見える中、ベテランの引退によるパフォーマンスの低下に直面することとなる。
ベテランから仕事の仕方を教わることができたとしても、その技能や知識を引き継ぐことはできない。
ベテランの育成を待つ猶予はないのだから、ベテランと同じ仕事の仕方を踏襲することはできない。
ベテランの高い遂行能力を当てにするような仕事の進め方は、コントロールしきれないリスクを伴いもする。
ITは進化し、企業統治のあり方も洗練化された。
とにかく、今までと同じ仕事のやり方では振り落とされる。
会社は組織的な対策に取り組まざるを得ない。
規格化や標準化によるワークプロセスの透明化が推進され、コスト管理が徹底され、そして専門性とマネージメントの分担により仕事はより組織的に遂行されるようになる。
しかし、組織で仕事をするとしても、つまるところパフォーマンスを左右するのは個人の集合体である組織なのだから、個人レベルでの能力向上なくしてパフォーマンスは上がらない。
パフォーマンスブレーキ
パフォーマンス向上のカギとなるのが人だとして、足を引っ張るのも人。
人と人のインターフェースにおいて情報の伝達を速やかにし、重複作業や生産性の低下を防ぎ、個人の能力や専門性をいかに成果へ結びつけられるか。
組織の最大の特徴が個人の強みを集合体として活かすことだとして、それをいかに実現するか。
それは手法の話であるが、実はマインドや適正の問題が大きく立ちはだかる。
様々な人が組織に関与する。
オペレーションに関わる人、ルーティーン業務に関わる人、タスクフォースプロジェクトに関わる人。
価値観のレベルやポイントが異なれば動機を共有することはできない。
様々な人がいる。
成り行きで仕事をする人、特定の経験からの延長で仕事をする人、肩書きで仕事をする人、前後左右一等親しか見えない人、仕事の流れの予想ができない人、とにかく人に頼る人、責任やリスクに過剰反応する人、人の話を聞かない人、周りが見えなくなる人、思い込みが激しい人、我が強く意見を曲げないことを信条とする人、弱みばかり探している人、何か言われたら言い返さずにはいられない人。
気付かない人、気付いているが解答を導けない人、言われたことをやる人、誰かを真似る人、一人でやりたがる人、同僚に見られたくない人、文句ばかりの人、他人と比較ばかりする人、危機感のない人。
人をばかにする人、尊敬の念を持たない人、相手や状況により容易に態度を変える人、お客さんだとぺこぺこする人、仕事に真摯でない人。
感情的になる人、建前の人、狭い範囲に執着する人、人に敬意を払えない人、自分の論理を押しつける人。
現実には、これら現実を出発点として組織のパフォーマンスを最大化する他ない。
そのための唯一の基準があるとすれば、それはフェアであることだと思う。
組織の姿
組織の大きさ
ビジネスカルチャーの違いとしても表れるが、会社の大きさが違うと、その組織の構成、役割、仕事の流れ、その中で働いている人のマインドや振る舞いに大きな違いがでてくる。
大きな会社では、その規模の力や技術的な優位性を背景に、概して、無意識ながら社員はすべからく自信過剰になり上から目線になる傾向がある。
言葉は丁寧でも、それが態度や行動に現れる。
自覚もなくそれが当然だと錯覚している人たち、手慣れてくるほど厄介だ。
それが相手のためになるとでも思っているのだろうか。
自らの標準を踏襲させ、自らのコンセプトを実現させることが、協力会社やサプライヤー、関係会社の仕事であるかのような振る舞いをみせるようなケースが見られる。
大きな会社は概して伝統的な企業文化を有しているが、伝統は諸刃の剣であり、浮世離れにつながる恐れもある。
とりあえず大きな会社の問題点は置いておくとして、我々が理解しなければならない重要な点は、大きな会社の組織を小さな会社へそのまま投影することはできないということだ。
同じことをやるにしても、大きな組織では、規律が重視される。
誰が何を行い、自分が何を行えばいいかが社内規範や慣習から明確になっている。
逆にいえばルールとそれに則って行動することが必須となる。
ルールは恒久ではない。
社会情勢や経済環境、新しいツールやイノベーションにより変更を余儀なくされる。
大きな組織では、ルールを規定し維持するための労力を確保できる一方で、変化においては、既成のルールは足かせとなり、歪となり負担となる。
ルール先にありき、になってしまう。
大きな会社で仕事の仕方を身につけた人が、小さな会社へ転職して最初に戸惑うのがこの点だ。
こまごまとしたルールを設定し管理することが意味をなさない小さな組織では、ルールの不足をいかに補うかを考える必要がある。
つまり、自分で考える必要がある。
反面それは、武器としても活用できる。
柔軟性、協調性、変化への対応、連携の迅速さ、即応性を活かせば、そこにマーケットを創出することができる。
しかるに、大きな組織が得意なのは概して大きなマーケットであり、小さな組織は小さなマーケットが得意なわけだが、ときに大きな組織で小さなマーケットに挑む場合もある。
ここに組織の歪が生じることは必然であり、その克服が発展へのカギとなる。
つまるところ、最も得意とするパターンで応じなければ成果がないがしろになってしまう。
小さな組織では機動力が要となる。
大きな組織の形にとらわれすぎると実行することさえ危うい。
ところで、日本の企業には、会社の大小によらず、大きな会社であっても大きな組織でありながら小さな組織のような細やかさを実現しようとしてきたという歴史的、伝統的な側面がある。
このきめ細かさが、日本企業が海外において成功した要因の一つになっている一方で、海外の企業が日本でやっていく上で障害となっているという側面もある。
合理的意味での効率の点で海外の企業からみると奇異に写るかもしれないが、マーケットのニーズに合わせて無駄の排除の観点から創意と工夫で効率を追求してきたことに間違いはない。
自動車産業や流通業にその成果が見て取れる。
ただ、グローバル化にさらされる中で、手さぐりに折衷案的な戦略や消去法的な方策を強いられる企業も多く、海外の合理主義との競争に正面から対抗できているとは言い難い。
マーケットが変化していく中で、従来の手法だけを頼りにしていてもその優位性は相対的に小さくなっていく。
グローバル化は、如何に日本の強みを活かすことができるかを問う一方で、日本的特徴の見直しをも強いている。
小さな組織の罠
新しいことをする場合、あるいは新しい場面に対応する場合(変化する環境においては、新しい場面が必然として生じる)、新しい仕事をだれがどのように進めるかを定義することが必要になる。
保守的な組織や人は、生理的にこれに反発する。
小さな組織では、本来このような場合の柔軟性があるべきだが、必ずしもそうでないのが現実だ。
人によっては自分の仕事の範囲と責任を慣例的に限定し、その範囲外に対して驚くほど無関心な傾向を示す場合がある。
自分が責任を負う分野に集中し、そこでパフォーマンスを上げることを第一義とすることは当然であるし、それは共通理解の範囲だ。
合理的な考えを持つ人ほどそう考えるだろうし、多くの人は、そもそも自分の利益に直接的に結びつかないことに対して取り組むべきインセンティブがない、と考える。
更に、苦労して獲得した知識と経験、手に入れた自分の位置と立場を守るために、排他的になる人もいる。
しかし、これは変化という点において、あるいは最適化という点において、いかなる組織においても弊害になりうる。
特に小さな組織の場合、限られたリソースを適材適所に配置する人事が難しいことや、各自の自主性や裁量に多くが委ねられるという事情から、自ずと全ての人に対して全体的な視野と柔軟性が求められるものだ。
実際に影響が大きいのは、人材を活用できずに組織としてパフォーマンスが十分に発揮できないというケースだ。
小さな組織では、大きな組織の大きな力に対抗するために、機動的に組織力を活かすべき場面が数多く生じる。
小さな組織は戦略的に適応できないといけない。
リソースの限定があるとしても、変化に対し準備しておかなければならない。
そのカギは、オーバーラップや広範な知識を伴う柔軟性にある。
その時点でやることが限定されていたとしても、知識やその共有を限定すべきではない。
シンプルに、断定的に定義してしまうと流動性を失う。
シンプルさはアウトプット(結果)に求められる要素ではあるが、一人歩きしてしまうと毒にもなる。
中身は常に混沌としたものであり、アウトプットは中身と切り離すことはできない。
中身が変われば、アウトプットも変わる。
各自の責任と権限とタスクとともに、柔軟性の発揮が小さな組織には求められる。
一人と二人
やるしかない、という状況の場合は別にして、一人だと、自分が我慢すればいい、自分がやればいい、という考え方がでてくる。
それは結果的に経験や力にもなるが、閉塞にもなる。
自分がそれをやってしまうと、他のことはだれがするのか?
他から求められている場合と、自分で気づいている場合。
時が来れば、やりたいかやりたくないかではなく、やるのかやらないのか、だ。
二人いると建設的な議論が可能になり、考えや行動がより合理的にまとまる。
なれ合いを排除できれば、1x2以上の成果と経験が得られる。
担当者の憂鬱
組織を正しく理解していない人は、その有用性を利用できずに容易に行き詰ってしまう。
理由も分からないままに。
ルールから入る人は、ルールがなければなにもできない。
ルールを無視する人は、他の人から理解されない。
担当者という名のもとに、自らを追い込む人もいれば、責任を追及する人もいる。
小さな組織では担当者への負担は確かに大きい。
しかし、組織論から見れば、役割を明確にして責任を分担するということが基本になる。
組織によっては、特に大きな組織では、役割がその人の仕事になる。
何でもやろうとする担当者、ついつい自分でやってしまう担当者がいる。
担当者というのは一つの役割であり、その役割に注力するという意識が必要だ。
一人で何でもやらなければならないというのは間違いだ。
別の視点から言えば、タスクの実行は、そのタスクを担当する人に任せるべきだ。
干渉しすぎて専門家の考察を失うのは、担当者の蒙昧にちがいない。
五人集まれば
タスクフォース型プロジェクト組織を特徴とする会社からメーカーのエンジニアリング部門へ転職した際に、いかに前の会社がプロジェクトの遂行に長けた会社だったかと認識を改めた。
前の会社のエンジニアが5人も集まれば、この会社のプロジェクト遂行能力を格段に上げることができるだろう、と思った。
それは正しくも間違いでもある。
一つにエンジニアリングの由来や企業文化が異なる。
外資系でこの規模の会社であれば、本社のリードが不可欠となる。
特定の分野において機能しても、異質なるものはそのままで互いを受け入れることはできない。
もう一つ、キャパシティー的に維持可能ではない。
前提となる5人はそれぞれ異なるエンジニアリングスキルを有することでリソースの穴を補うことができる。
タスクフォースをプロジェクトごとに組めるのは、社内にそれだけのリソースがあるからだ。
つまり、それだけの需要がなければ成り立たない。
大きな会社ではマニュアルが整備され、また、優秀な人と仕事をするのが当たり前になる。
パフォーマンスに劣る個人がいても補うという組織力がある。
一方、小さな組織に頭でっかちが集まっても、ニッチな仕事はできない。
世の中には様々な形態の組織がある。
多数
人数が多いと本当は必要ないような余計な仕事まで始めてしまう。
質が低下する。
by 鈴木敏文
確かに、彼らはムダがないようにムダな仕事をする。
自分が、何かをしている状況を作る。
懐疑的な感覚も抱いているが、それでも会社が機能していると考え自分の関知するところではないと解釈する。
言われた仕事をして、言われなければ継続する。
そして、給料を当たり前の如く受け取る。
ピラミッド
会社の組織は総じてピラミッド構造になっている。
会社に限らず、世界中のあらゆる組織はそのような構造になるのかもしれない。
そうでないと、指揮系統が構築できないからだ。
ただ、情報伝達手段の普及により、今まで存在しなかった形態の組織が台頭してくるかもしれない。
ピラミッドでは、上に行くほど人数は(席は)少なくなってくる。
役所では、こうしてあふれた人は天下りするらしい。
昇進をおめでとうという風潮。
評価されたからということか?
何を?
それは誇りに思えることか?
何が?
利得を得られるからか?
それでいいのか?
やることが変わっても、一人ができる量に大きな変わりはないはず。
一方、責任は重くなる。
役割がより限定的になったということで、それで人間が偉くなるというわけではない。
せいぜい、周りから持ち上げられることに優越感を感じる程度の話だ。
強いて言えば、上司は一日にしてならず。
そして、日々、それまでと同じように、励まなければならない。
最終的には、組織として発揮されるパフォーマンスを期待されている。
組織の一人一人には、トップを含め、それぞれの役割がある。
部署
部署としてのビジョンやコンセプトの具体化、方向付けと運営、リソースの育成と管理、技術的・商売的なサポート、上や横との調整、などが上司の役割や仕事だとして、では部下の役割や仕事とは。
上司に仕える、ではなんともつまらない。
部下が上司に気を使う、あるいは過剰反応する場合がある。
パワーギャップがそうさせるのかもしれないが、その現象自体はいい傾向ではない。
真意が伝わらない。
上司のちょっとした意見を、命令ととらえる。
こうなると上司を自分の仕事に巻き込むことに抵抗がうまれ、上司の経験や知恵をうまく利用できない。
部下からの提案は、部としての機能を活性化させる。
そもそも、自分と上司と同僚という枠の中の発想では何の創造も起こらない。
上司も自分も組織の一部だ。
会社という組織、社会という組織の中で自分の立場を考える。
上司は、できれば抽象的な表現で相手に考える余地を与える。
自己満足や独善にならないように、相手や担当者の優れた考えを引き出す。
組織の不完全さ
組織の不完全さ
組織の不完全さは需要と供給のアンバランスに由来する。
つまり、今の経済体制下では、不完全さは本質的であるといえる。
継続するために、どのようなビスネスも有能さを必要とする。
しかるに、そのリソースを維持できなければビジネスは成り立たない。
他国の小さなマーケットでビジネスを展開する場合、本社の持つ技術力が必然となる。
小さなマーケットでは技術者を恒常的に雇用することはリスクを伴うが、一方で本社は、既に大きなマーケットを確保しているからそのような技術力を供給することができる。
その国内のサポート組織と連携すれば、概念としては、これでビジネスは可能だ。
現実としてうまくいかない理由の一つは、本社の実務レベルにおいて、ビジネスの形態の違いに対する認識が欠けているという点だ。
本社の人間のマインドの問題は、当事者意識の欠如と大きな組織の弊害から来る。
組織に安定が必要だとしても、組織先にありきでは組織の維持が目的とさえなってしまう。
人は入れ替わる
自分の定年までは安定して働けたらいいという風にみんな考えているものだが、その後に残された者はその後のことを考えねばならない。
構造的変化により残念ながら得意な仕事を継続できなくなるような場合もあるが、人は経験を積むことで仕事の遂行能力も高められるから、歳を重ねるとよりいい仕事ができるようになる。
経験により獲得した知識や技能は、引き継ぎをしたからといって簡単に伝承できるわけではない。
どうしてもパフォーマンスは落ちる。
特に、手に職を持っている人はそうだ。
感覚的なものもある。
ようやく満足のできる仕事ができるようになると引退が迫っている。
人の世の移り変わりは、その繰り返しのようなものだ。
小さな組織では、熟練者が一人でも辞めると、その影響はとても大きい。
それはいわゆるリスクであり、リスクをマネージメントすることが本当に必要だ。
小さな組織におけるリソースの問題には、柔軟性や人が欠けたときの影響などの実務遂行に関わる点以外にも、個々のリソースのキャラクターや能力を正しく評価できない、活用できない場合などの運用にかかわる問題がある。
業務に没頭していると忘れがちになってしまうが、我々はリスクにされされている。
しかるにリスクのないビジネスはない。
人間関係
いやな人と仕事をしなければならない。
正論で言えば目標は同じはず、だが、そこにズレは有りうる。
初めてであれば、そこがわからない。
選ぶこともできない。
我々が集中すべきことで、かつよりどころとなるのは仕事における目標と成果。
少なくとも立場のある人であれば、関わりのある人の仕事について、成果の点から正しく評価する必要がある。
群欲
組織は何らかの目的を成し遂げるために必然的に作られるが、本来の役割を越えて群れの意識が生まれると、自分が他人よりも得をしたいという人間の本能が自分の欠点や不足を補うための手段として群れとの同調を促し、自己の利益のために群れの利益を欲するという相互依存の状況に至る。
人間が動物であるということと我々が動物的な競争社会の中で生きているという二つの事実は、背景として常に我々の在り方に影響を与える。
群れの中での助け助けられる関係は、群れの利益を阻害する者を敵と見なす。
自分の精神さえ歪められもする。
周りが見えなくなる。
もしくは最初から周りが見えないか、見ない。
群れの中の頼りになる人材を過剰に評価し、思うようにいかない人材に鉄槌を下す。
柵の中の話だ。
それでいいと思っている。
それで成り立っているからだ。
ひとときの限定範囲的な幸運。
自己満足による潜在力の停滞と機会損失。
無意識なのかもしれない。
気付いてさえいないのかもしれない。
最初から群れはあったから群れのルールに従いそれに染まっただけで、群れの人間がそうしているから自分もそうするのが当然と思っているだけなのかもしれない。
群れは必要だ。
仲間意識はチームワークを速やかにする。
力がない者や力をつけるための期間が必要な者は、群れで守らないといけない。
ただ、ユートピア、エルドラドや桃源郷などこの世に存在しない。
群欲としてもっとも意識すべき群れは会社であること、違和感に対して敏感であること、居心地がいいことにどっぷりと浸からないこと。
群れの中、外に関わらず、人の言葉に耳を傾け自分勝手に解釈しないこと。
自分個人の信条を持つこと。
人は楽をしようとする。
楽をできないかと考える。
それはいい。
現実は、一部の苦労する人たちの努力に支えられている。
その苦労を顧みずに楽をすることが問題だ。
フレンドシップリレーションシップ。
あるいは仲良しグループ。
何も考えないのは楽だが、楽をしないということが唯一の道であることを我々は経験から学んで知っているはずだ。
サラ忍マンであれば誰もが厳しくつらい経験を胸に刻んでいる。
分担
強烈な個性のカリスマが先頭に立っていても、彼だけで仕事ができるわけではない。
そこには、役割分担が必ずある。
実務を仕切るサポート役や実務部隊がいないと現実的には仕事は進まない。
分担して仕事をするということ、それがサラリーマンに課せられた役割そのものでもある。
いわゆる出来る人は、その人の言うとおりにしておけば大体問題がない、というふうに認識されている人のことだ。
機敏で環境を見極められる、時代に合致したセンスを持っている。
しかし、そのセンスが多分に経験により獲得したセンスである以上、自分の周りの環境が社会とかい離すればするほど、センスも歪められてくる。
部下の受動や委縮ばかりだと、やがて指標を見失いその修正が効かなくなる。
不協和音
小さな組織では内部の不協和音は致命的といえる。
人同士の確執は、自然に解消するようなものではない。
外科的な対処が必要であるが、枠組みを簡単に変えることができない。
お願い
論理的で洗練された組織であれば、「お願い」という概念はなくなる。
各人の役割と責任において、それぞれが自分の勤めを果たせば、それで組織は動く。
この場合、「お願いします」は、コミュニケーション上の潤滑材としての意味と、仕事の流れの上でのハンドオーバーの意味となる。
一方、成熟していない組織、変化に順応しなければならない組織では、「お願いします」はアンバランスの象徴だ。
それは、アンフェアの象徴でもある。
力の強い相手と劣る相手に対しては、「お願いしますので、やってください」の意味となる。
はなはだ不自然な状況であり、このような居心地の悪い不協和音な環境は、続いてはいけない。
新しいことにチャレンジしなくてはいけない組織では、「お願いします」は普通に発生する。
これは小さな組織によく見られ、その解釈は少し異なる。
小さな組織が競争するには柔軟性が必須であり、そのための相互の「お願い」は速やかな共同作業において必然となる。
その違いを理解せず自分の都合で解釈を用いる人がいるとすれば、組織は機能しなくなる。
そのような人たちは、自分の弱点を第一に考えながら接し方を決定しようとする。
専門性
何でもわかりたい、何でもしようとする人がいる。
興味があることはいいことだが、他人の行為に対して自分の解釈で何かいいたい、言わずにいられないとなってしまうと弊害を伴う。
役割分担がクリアーになっていない場合の行動傾向といえる。
本来、専門性のあることは専門家へ任す。
餅は餅屋。
責任とタスクの確定と周知。
得意だから、不得意だから、やりたいから、やりたくないから、は別次元の話。
現場のことは現場へ任す。
そのための現場の組織を考える。
多少知っている人が何かと言いたがるのは、情報共有化の弊害や、不安定で無秩序な職場の体質が表れているのかもしれない。
専門家へ仕事を任し、必要なコミュニケーションで全体を管理する。
専門家がいない場合はリスクなわけだから、リスクをコントロールできるかどうか。
専門家でなくても、担当者が専門家のアドバイスを受けながら仕事ができると専門家が判断して実行するケースは通常業務の範囲だ。
専門家は必然的に共同作業に不慣れなのかもしれないが、一方で組織に属する以上、協調を求められているはずだ。
ところで、めったに使わない専門性をずっと社内に確保しておく必要があるかどうかはリスクマネージメントの話であるが、外部から同等のサービスを受けられるのであれば多少不便でもその方が生産性は上がる。
その場合は専門家のアドバイスを仲介できることが重要になってくるが、実は我々はそれを求められている。
専門性が必要とされるのは、その深さの前に幅の広さにある。
見えないリスク、知らないと見落としてしまうリスクがあるかどうか、その見極めが最初に必要となるから。
コンセンサス反動
合意形成に様々な関係者が集い、最適な方法を決めてみんながそれに向かってそれぞれが担当する仕事に集中する、それがコンセンサス方式の本来の意図。
ただ、この場合、決まった方針を翻すには相当な労力が必要となる。
即断即決といったスピード感もない。
日本的な仕事のやり方の強みを生かすことは要点になるが、それだけですべてがうまくいくわけではない。
保守的な業界であればあるほど慎重であることに比重が置かれるが、臨機応変な対応が望まれる場合には不利に働く。
管理手法は高度化されてきているものの、旧態依然としたかっての強みが、柔軟な対応の点から見ると業務の足を引っ張っていること気付いていない人は多い。
気付かないということ。
形骸化しても、もはやなぜそうなのかもわからずに実行している人がなんと多いことか。
それが組織の閉塞や硬直を招く。
縦割り
組織には、潜在的に縦割り志向がある。
一つに横の組織とは利益を共有しないから。
一つに顧客が異なるから。
才能で仕事をする人
組織はマイナスをカバーするという組織構造を持つ。
一方で才能にブレーキをかける傾向もある。
成果を上げるのに組織が弊害となる場合もある。
一人の優れた才能は、組織を簡単に凌駕する場合もある。
そのような才能は組織を離れた方がいいのかもしれない。
但し、過信してはいけない。
才能はイノベーションや新規分野、変動する分野でこそ活かされる。
才能はもちろん、組織においても輝く。
その強みは組織にも活かされる。
しかし、組織に依存しながら、同時に組織をないがしろにすることはできない。
組織も、才能が目立つからと言って過剰に評価してはならない。
それは一人のパフォーマンスではないはずであり、周りの支えがあってのことだ。
才能があるものは、行き当たりで行動する傾向がある。
反動として、準備や苦手な点を補うのが下手。
関係者との調整もおろそかになりがち。
部分最適
組織が大きくなってくると、役割が分担されるようになり、パターン化されてくる。
そして、パターンから外れると、極端に対応が悪くなってくる。
肝心の責任が、組織間で分担される事態にもなる。
作業は単純化され、区分化され、総合的な見地は失われていく。
何が優先なのか分からない。
全体像を掴めない。
モチベーションの低下や結果としての品質劣化。
ところで、オートメーション化の弊害を避ける一つの手法として、ローテーションによるマルチタレントの形成という方法もある。
しかし、この場合には引継ぎの問題を解決しないと、混乱と行き詰まりが発生する。
組織の在り方
オーガニゼーション
ドラッカーが言うところの顧客の創造、マーケティングとイノベーション。
最初に取り組むべきは、ビジネス、置かれている環境や状況を分析し、活動指針を明確化して、最も適した組織形態を構築することだ。
始まり
これであればどんな状況においても適用できる、といった組織の形はない。
特定の組織がどんな状況においても万能というわけではない。
一方、組織の形がなければ始まりもない。
組織については色々な考え方が世の中にあるが、PMBOKの第一章は、プロジェクト組織だけでなく会社における組織の在り方を考える上でも参考になる。
客観的に見れば、プロセスとファンクションのどちらに重点を置くかで組織の形は全く変わってくる。
プロセスか、ファンクションか
大規模で複雑なプロジェクトの場合には、様々な専門知識と最新の技術が高い次元で統合されなければならない。
一人の人間がその全てを把握することはできない。
従って、ファンクション(専門性)に根差す社内組織をベースとし、クロスファンクションでタスクフォースプロジェクトチームを構成するという組織形態を取る。
例えば、数十億から数百億あるいはそれ以上の規模となる石油/石油化学プロジェクトを手掛けるプラントエンジニアリング会社などは、そのような組織を持っている。
シニアによる専門分野におけるサポートが得られやすい一方、多数のインターフェースによる効率の悪化を補うために、高度なプロジェクト運用技術が関係者全てに必要となる。
一方、プロセスに根差す組織形態を取る方が、インファーフェースが少なくなる分、効率的となる。
比較的小規模のプロジェクトなど、少人数で遂行できるような場合に有利。
外部(顧客を含め)との連携においても速やかな対応を行うことができる。
担当者にはプロセスの全般的な知識と共に、扱われる機械や業界に関する知識が要求される。
個人の裁量に任される部分が大きくなるため、独りよがりや個人ベースでの妥協に陥ることにならないような対策が必要になる。
専門性の点において広義の専門性に劣るため、サポートを行う体制が設けられる。
この組織形態は、特定の得意分野からの逸脱に弱い。
機能しなくなる。
特定のプロジェクトの管理は出来ても、知らないプロセスのプロジェクトを同様に管理できるわけではない。
ところで、プロセスオリエンテッドの組織で仕事をしている人がファンクショナルな組織の会社と打ち合わせを行うと、その参加人数の多さに一様に驚く。
専門分野における専門知識で来られるとまいってしまうところもあるが、横の連携がまずいと打ち合わせが意思疎通や洗い出しの場になってしまうようなこともある。
クロスファンクションで業務をやろうとした場合、それに馴染みがない会社は容易に落とし穴にはまってしまう。
決めようにも誰も決められない。
決められないのは決めるだけの権限がプロマネに与えられていないからであり、背景にはプロマネの経験不足、社内の序列や組織間の壁がある。
プロマネが本来その仕事の内容をもっともわかっているはずだが、そのプロマネが結論を下すことができない。
プロマネの所属する部署の上司はより高い権限を持っているが、プロジェクトに深くかかわっていないために判断ができない。
判断すればその責任を取らなければならないから。
マトリックス
会社がいくつかのビジネス分野を手掛けている場合、組織を事業部門別にする方法と、全体としてマトリックスにする方法がある。
事業部門別のような縦割り組織は、上流から下流までを一貫して一つの組織で担うことができ、意思決定の速さや情報の伝達、組織内意識の共有やまとまり、専門性の発揮、リソースの安定確保の点で利がある。
しかし、それが大きな組織でもなければ、閉鎖性や独善性、自己満足、不透明、リソースの固定、マンネリ、小さな世界観といった弊害が生じる。
会社とすれば多くの部門標準を持ってしまうと方向性を定めにくく、全体としての柔軟性の欠如とともに、リソース(情報、人、関係者)の重複やムダ、と同時に不足、保守的な思考の形成などが発生することにもなる。
このような場合、組織の効率化の観点から、ルーティーン部門や共通性のある作業に横断の組織を設ける形が採用される。
それぞれのビジネス分野にコアな人材を配置するというような配慮は当然必要になってくるが、リソースの柔軟性、作業レベルの標準化による効率化や生産性の向上が期待できる。
ただ、縦割り組織に必然的に備わっている一貫性や責任体制が、マトリックスでは損なわれる恐れがある。
マトリックスは、ファンクショナルな組織(前述)の縮小版のような性格を持つが、複合組織になることの分かりにくさに加え、運用において有機的自立機能が必要になることから、関係者内での不理解、不徹底、消極的姿勢、等々の負の要素の克服が必須となる。
柔軟性と専門性を両立させるには、イメージだけでなく、広い知識やそれなりのインセンティブやモチベーション、そして人材が必要になってくる。
責任と所掌
小さな組織の場合、仕事の範囲や責任を明確に定義づけることは現実として難しい。
また、そうすることが現実として不都合を招くケースも多い。
しかし、組織をあいまいにしておけば、互いが自主的に協調し不足を補って物事の処理にあたると考えるのは、都合のいい解釈だ。
対応は後手に回り、歪み、後味の悪さを伴ってくる。
感情的にもなる。
責任の所掌が不明確なので、担当者のそのときの都合により自主判断で処理範囲、程度が変動する。
いたるところで“お願い”しないといけないような関係が生じるのは普通ではない。
権限が不明確なため調整のしようがない。
このような状況下では、“抜け”、“落ち”、“品質の低下”があっても不思議ではない。
“失敗”が生じたとしても、責任が不明確であれば真剣に省みられず、繰り返し同じ結果を招くことになる。
責任の所在を明らかにすることによって始めて弱点が明らかとなり、その対策が打てる。
仕事の所掌、責任の区分があいまいでは、いい仕事をしても公正に評価されるとは限らない。
責任ある仕事は、納得のいく評価の裏付けなくして継続することはできない。
責任を負うことを嫌がるとすれば、それはプロ意識の欠如とも取れる。
サークル活動ではないのだから、他人に頼りすぎたり、あまりに他人に助けを期待するのは筋違いだ。
無償の行為は美徳かもしれないが、プロフェッショナルではない。
権限を明確にして思い切って仕事ができる関係。
それぞれの責任と役割において各人が力を十分に出し、力を結集し協調しながら業務を処理するというのが一つの理想。
問題が起こったら原因を正しく分析し、次に結び付けることにより発展していく。
それが望むべき姿。
では、責任を押し付けられて萎縮したり、窮屈な関係になったり、業務がスムーズにいかなくなるような状況を避けるためにはどうすればいいか?
不毛な個人攻撃を避けるには?
暴走してブレーキがかからない状況を招かないようにするには?
それには責任を個人の問題ではなく組織の問題として捉え、全体の中での強みや弱みを客観的な観点から把握し、体系化により組織的な連携を強化して全体的な成果へつなげるといったコンセプトがなければならない。
そして、最終的な責任はマネージメントが取るという体制が不可欠となる。
つまり、小さな組織なりの、独自の対応が必要になる。
コミットメント
ヨーロッパ系の外資の場合、組織を考える上で、彼らヨーロッパの社会に根差すコミットメントの概念を正しく理解する必要がある。
詳しくは『コミットメント』参照。
具体論
プロジェクト組織の役割分担
我々、サブコン、サプライヤー、そして顧客。
社内的には、営業、テクノロジー、エンジニアリング、サービス、バックアップ部門。
それぞれにそれぞれのスコープと役割がある。
組織化
最初は組織ありきでも、人ありきでもうまくいかない。
運用する人や管理する人ではなく、何をするのか分かっている人が考えないと、組織化はうまくいかない。
組織の管理
組織運営の基本は、構成員各自がそれぞれの仕事やボリュームをある程度管理することにある。
ワンマンの会社でもなければ、トップが全てを把握して差配するなどできないしすべきではない。
前提として、各自が自分を管理でき、プロセスを透明化していることが必要になる。
マネージメントには、各自の負荷を把握し制御することが求められる。
セールス部門
我々が扱っている機械は一般の人向けの機械ではなく、特定の顧客へ提供され特定の用途で使用されるいわゆる産業機械だ。
こういった機械やプラントプロバイダーのセールスに必要な要件は、とにかく機械を知っていることだ。
機械を知り、プロセスを知り、マーケットを知り、顧客を知る。
それは最低限のレベルでもある。
補完
共同作業をする場合に関わる人がどの程度の実力があるかを把握する。
マネージメントする上で重要なことの一つに、その仕事に要するワークボリュームと専門性を把握すると共に、仕事に携わる要員の個々の能力、容量を各場面、段階ごとに素早く正確に把握することが求められる。
個々のレベルでは処理能力や範囲、処理容量に差があるのは当然なので、できないことを期待するのではなくできる範囲を任せ、足りないものを分析して適宜処理範囲を変更したり、補充などの検討を行うようにする。
一部に偏りすぎるのもだめで、バランスの取れた組織が望まれる。
つまり、個々の能力の多寡よりも、組織の能力が全体にわたり必要な量に足りているかどうかがむしろ重要となる。
一様に業務を割り振れば品質に差が出るし、歪みの元となる。
無理強いをすれば後々大きなリスクとなって返ってくる。
もちろん、高い個人能力の集団というのが理想であるが、それは理想に過ぎないから問題が起こる。
世界が変われば我々も変わらないといけない。
でなければ継続できない。
調査、分析、決断、チャレンジ、経験不足の露呈、局所的失敗、個人的な困難、そして、透明化と管理の強化が叫ばれる。
よく見かける、ごく自然な流れだ。
では、なぜ問題が起こるのか?
マニュアル化や硬直化により、組織内に分散する能力を活かしきれないという状況。
そして、潜在する問題を特定する上での組織的な弱点。
経験不足から生じる逸脱は、本人の力では改善できない。
致命的な落とし穴とその結末を、認識することができない。
経験不足を補う組織的な補完。
プロジェクトマネージャーは、いつも、前もって、そういうことを考えないといけない。
時代と共に
個人に配分される仕事の中身をあらかじめすべて定義することなどできないし、管理できない。
縛るべきでもない。
組織のありようは必要により決まってくるが、個人の能力や経験値、強みなどは個人に依存する。
適材適所がいつも成り立つわけではない。
一人ですべてできるわけではないので、役割分担が基本となる。
しかし、場面が様々に現れ変化する中で、すべてを網羅することはできない。
自分の仕事ではない、と思うものの、自分が最も適していて、まだ自分に余裕があると思うならば、自分が適任なのだろう。
組織の不足はいずれ見直さなければならないとしても、今、誰もやらない、あるいは誰かがやって混乱が生じるならば、自分がやるべきなのだろう。
もちろん、上司はそれに気づき、公平に処遇してあげないといけない。