一般理論
一般理論
感受性、獲得した視点の多様性や見地、思考のアルゴリズム。
人によって物事の見方が違っていることに気がついたのは割りと早い段階であったが、それを理解できたのは随分と経ってからだった。
様々な矛盾を見つめることを通して、人の弱さと危うさを学び、自らの弱さと小ささに泣き、反発し妥協しながらも、事実を受入れ本質を求めることが己の性と知る。
思考錯誤の時代を経て、相違なるものを「一般理論」と自ら称し、他が理解しないことに自意識過剰になりながら、世の中の従順なるものすべてを否定するがごとく、いつも何かに怒りを抱いていた、時期もあった。
ものの見方
分かる人と分からない人(もしくは、変わる人と変わらない人)
そこに存在する違和感を、気付く人はすぐに気が付く。
大部分の人は多分、繰り返しているうちに気付く。
気付こうとしない人もいる。
気付かない人は、気付くのに数年かかるかもしれない。
一生気付かない人もいる。
知覚することのできる人とできない人。
知覚することのできない人は、自分が乾き、飢えていることさえ知覚できない。
ただ、強いられ、もがく。
その差は、その人が持つ感性、その人の生き方、その人の生きてきた道、に依存する。
また、態度や振る舞い、考え方に左右される。
上手か下手、ではなく、分かるかわからないか。
分らなければ価値は見いだせない。
心の呼応。
芸術への理解。
経験により知恵が増す。
一方、歳をとるにつれて新しいことや変化することが難しくなる。
習慣づいてくると、創造力は鈍化し、感性は徐々に硬直化する。
分かる場合と分からない場合
心ここに在らざれば視れども見えず。
興味がない、経験がない、出来ない、インセンティブがない、みんなやらない、当事者意識が低い、ネガティブ思考、今に自己満足、等々。
社会の関心は個人の自我を形作り、個人の振る舞いは社会を代替するイメージとなる。
人はそれぞれであるが、共有する話題の根っこにあるものを知覚できない人間が多数いるならば、その社会の病巣は悪化の方向へ向かっているに違いない。
定義する脳
見えないからといっていつまでも恐れてばかりだと前へ進めない。
何もない空間が形で仕切られるように、見えなければ定義してあげればいい。
その際、分析とイメージが大切だ。
分析はロジックを与え、イメージは目に見えない情報を付加してくれる。
経験する脳
人は同じ情景や経験に何度も感動しない。
それが当たり前になる。
ある意味、咀嚼し、それが価値観となる。
それは感性の問題ではない。
脳の中で整理され、そして、新しい感動への準備となる。
因果は短絡し、反射的になり、思考は効率化する。
通り過ぎる膨大な情報を整理し、必要な情報に直接的にたどり着き、そこに注力することができるようになる。
運動のように、シャープに無駄なく、条件反射的に対応する脳を作り上げる。
さまざまな場面に遭遇することを通して思考が磨かれる。
それ自体はごく当たり前のことであり、いわゆる成長とはそういうことだ。
相対的で絶対的な能力とは、経験からそのようにして獲得される。
はたして、注意すべきは、思考の硬直化による現実からの乖離だ。
考えなくとも解を導き出し、世界を閉じてしまう。
理由もなく高圧的となる。
年を取るとよく見られる傾向だが、若くてもあり得る。
その現象は、ときに犯罪的でさえある。
因果が理の及ばぬものである限り、人は独善の誘惑にさらされている。
そこに秘められた弱さと危うさを知らなければ、深刻なる蹉跌の罠に陥るかもしれない。
現実の束縛により自らを縛りつけるのと同じく、現実を無視するということは将来に対して罪だ。
良くしゃべる人
良くしゃべる人は、概して無駄なことを良くしゃべる。
事実に基づかないこと、間違ったことさえもよくしゃべる。
大抵の場合、しゃべった中で有益な部分は、寡黙だが要点を押さえる人に及ばない。
そもそも彼らは、何かを、とにかく訴えたいのだろう。
能弁は、先入観と主観から入る。
だが、ときたま、おしゃべりと思えるほど話しながら、論理的に有益なことばかりをしゃべる人がいる。
しかもそういう人は、しゃべるタイミングも心得ている。
そのような人は、いやゆる優秀な人であり活躍すべき人だ。
言葉
言葉が持つ最大の矛盾は、その言葉がいかに魅力的であっても正しいとは限らないという点にある。
故意や悪意が含まれているかもしれない。
しかし、それで世界が成り立つという事実。
人は言葉に惑わされ踊らされながらも、それを享受する傾向がある。
考える人
考える人からすれば、考えない人をある意味理解できない。
しかし、よくよく考えると、考える力というのは後天的に獲得されたものだ。
赤ん坊が考える前に慣れから習慣を獲得するように、考えるという行動は後から備わってくる。
考え出すことのきっかけは様々だろうが、必要性が小さければ、考える力も小さくてすむ。
環境に依存する部分が大きくある。
考える人は考えることが宿命なのかもしれない。
考える人は立ち向かう人でもある。
Think
人は考える、ゆえに余計なことを考える。
世の中、いくら考えても解決しないことばかりだ。
考えるなとはいわない、考えた方がいい。
ただ、ときには考えるよりも感じることが必要だ。
世界はそう単純ではないので、ディジタルでいくら考えても解を導き出せない場合は多い。
Don’t think,feel!
感じることは感覚的に理解するために重要であり、即応が必要な場合には特に有効だ。
一方、普遍的な価値観の形成や論理的な思考には、考えることが必須。
Think,think,think!
解説書や教本により安易に知識を取得したとしても、限定的な状況でしかそれを知恵として有効に活用することはできない。
様々な状況に対応するには、自分で推論して解を求める習慣を身に着けておくことが大切だ。
考えること、推論すること自体が重要であり、新しい状況や難題に直面した時に自分の助けとなる。
ベースとなるのは事実と矛盾の見極めだ。
まず、事実を受け入れる。
そうすれば、おかしなところが見えてくる。
認識論
ものには有形無形の形がある。
捉えられるものの大きさや色は使う物差しや明かりの種類によって変わってくるし、物差し自体がそれを測るのに適していない場合もある。
客観的に測れるのは、そのものの特性の一部分にすぎない。
形とは内面を包むもののことだ。
無形の形という表現もある。
ある一部分を見たときに、それがそのもの、あるいはその人自体であると考えるのは明らかに間違っている。
なのに、まるでそうであるような勢いで人は話をする。
それは、そのものを何らかの形で定義しないと、そのものを認識できないし、伝えられないからだ。
コミュニケーションの本質的な問題は、情報の発信者もしくは情報の受け手が、すべてではないものを、自分の物差しに換算したうえで、すべてであるがごとくデフォルメしてしまうことにある。
だだ、これは生活の中で無意識に行われているごく普通のプロセスであり、それが大きなトラブルの原因になるわけではない。
人は、新たな情報に応じて自然に自分の認識に修正をかけていき、本来の姿を徐々にとらえていく。
しかし、時にはおおきな誤解を招くこともある。
どのようにすればいいか?
ものを形あるものとしてとらえなければいい。
その情報が、そのものの一部分にすぎないと最初から認識しておけば、そのものを最初から誤解してしまうことはない。
べつの言い方をすれば、いま見えているのはそのものの一部分で、残りの大半は見えていない(わからない)、と認識すればいい。
分かっていることを頼りに論理を組み立てても、分かっていることを無理やり結びつけるだけでは、本来の姿は見えてこない。
分からないことがあるということを前提に、その中の分かっていることを見つけ、わからないことを排除せず、全体の相関の中で組み立てていく。
外部環境、外乱、立場、経験、健康状態、あるいは、朝、昼、晩によっても、物への見方が変わってくる。
リフレッシュすると、また違って見える。
ものごとを正しく見ることを繰り返していると、だんだんとものの見方も身についてくる。
そうすれば、全体の大きさがどの程度かも自然とわかってくる。
基本は、不完全を知り、おごらず、謙虚にものを見ることだ。
人の色
ところで、他の人を100%理解することは本質的に不可能なので、人の噂話をするときは、その話が認識できる範囲に限定されているという前提を無視してはいけない。
つまり、不完全なのが本質であり、どのようにがんばっても不完全のままだ。
ただし、他の人を「知る」ことはできる。
初めて会った人に赤色を認めた場合、その人の全部が赤色と判断すべきではない。
見えたのがたまたま赤色であって、その他は見えていないのだから。
次に会ったときに、青色を認めるかもしれない。
でも、その人は赤色と青色だけの人ではないだろう。
色の定義は、また、あいまいなものだ。
例えば、海の色は青色ではないし、光の加減で常に変化する。
なのに、人は海の色を青という。
色に様々あるように、人の色も様々な色が重なり合っている。
大事なのは、色で形を判断しないことだ。
全ての形を塗りつぶすことなどできないのだから。
但し、無から入ったのでは手がかりがつかめない。
無からではなく、白色から入ればいい。
他人を理解する
理解しようとすることは必要だが、理解できると思うのはエゴであり、無責任であり、あるいは偽善であり、無知な自己満足にすぎない。
せいぜいできるのは、分かることと敬意を払うことぐらいだ。
人は言葉を発見してから言葉でコミュニケーションが取れるようになった。
思考し、創造さえすることができるようになった。
書くことで記録し、広く、後世に伝えることもできる。
色々な言語で、優れた文章や文学作品が生み出される。
では、言葉でお互いを理解することができるか?
無理だ。
言葉よりも多くを語るというボディーランゲージが加われば?
無理だ。
言葉はツールでしかなく、決められたルールの上でごく限られた範囲のことを伝えられるにすぎない。
人々は交流し社会を形成する。
そこに社会としての意識が生まれ、社会としての人格が宿る。
が、それは分かりあうことのない個の集合体という面を併せ持つ。
外の世界
外の世界の一部を認識できたとしても、自分の支配のもとにおくことは決してできない。
外の世界は、自分の見えないところで流転している。
その流れを把握することはある程度できても、それぞれの流れにそれぞれの主体があり、それらはときに引き付けられ、ときに反発し、自らの流れにも干渉してくる。
表層の流れ以外にも水中の障害物に影響され、目に見えない流れはダイナミックに変化する。
溺れないよう、飲み込まれないよう、五感を狂わされないように、目印を見定めて大局をつかむ。
相手の立場
相手の立場で考えることがしばしば求められるわけだが、自分がそのまま相手の立場を想像して考えても、その相手の状況を再現しているとはいえない。
この場合、自分ではなく、その人なら何を感じ何を考えるかということが必要になる。
自分だったら何を考えるかというように発想してしまうと、それはまったく別の話になってしまう。
路傍の石
路傍に転がる石も、そこに在るのには理由がある。
そこには歴史があり、由来がある。
石ころであろうと、ダイヤモンドであろうと。
何かを一方的に取り上げたり単独で語ることは、その点において矛盾をはらむ。
相対的にみれば、その何かは物語の一部分であるから。
水の流れ、日常でない、想像を超えたことが、起こり続ける。
悠久、大河、滝、灌漑路、飛沫、音、うねり、丸い石、コケ、、、
関心を向けるかどうかに関わらず、それは起こり続ける。
プロセス。
ある瞬間を切り取ってもそれはすべてではない。
実態へ近付くための糸口でしかない。
全てのものは、連綿と続く歴史を経て今に至る。
今は一瞬であり永遠でもある。
スペース
目に見えるものがなくても、そこに何もないわけではない。
気づけ、そこに空間があるということを。
気づけ、空間が目に見えるものを形作るということを、スペースが目に見えるものにその意義を与えるということを。
空間は開放と落ち着きを与える。
白は、色がないわけではない。
白という、始まりの色を持つ。
目に見えるものよりも見えない物の方が大切だというが、もしそこに存在する空間に気づくことさえできなければ、見えないものに気づくこともできない。
ポジティブシンキング
ポジティブシンキング イコール 楽観主義とみられる場合がある(あるいはそんな人がいる)が、本来の意味としては、困難の中に希望や光を求め、自らや周りを明るくする思考方法。
別の見地からものを見たり、閉塞感にとらわれない、建設的、進展的な、あるいは斬新なソルーションを導くことが期待できる。
楽観主義は似ているが、正すべき誤りまでも楽観するような振る舞いを伴う場合があり、そのよう場合は周りの者が後始末で迷惑する。
理性と感性
人は誰しも理性の左脳と感性の右脳に悩まされる。
感情を如何に理性で抑えることができるかに苦心する。
感性のアンテナを張り巡らせ、未知なるものを未知として感知することができて初めて、未来を拓くことができる。
一方、考えを深め、思慮深くなければ、未来を築くことはできない。
道をリードするのは感性だ。
感性を理性から如何に解放するかで、その人の生き方が決まる。
フィードバック制御
プロセス制御の最もシンプルでかつ代表的な制御方式として、フィードバック制御というのがある。
いわゆる、PID制御だ。
例えば、配管を流れる流体の流量制御の場合、流量計と調節弁、PID調節器から制御システムは構成され、設定値(目標の流量)を変えた場合の実際値(実際の流量)の設定値への追従、あるいは、外乱に対する実際値の設定値への収束において利用される。
P(比例)、I(積分)、D(微分)はそれぞれパラメーターで、プロセスの条件ごとに設定される。
知っている人は知っているが、設定値への追従や収束を早くさせたい場合、ソフトランディングではなくハードランディングになる。
この場合、設定値に対し、実際値が行き過ぎ、戻り過ぎ、を繰り返しながら徐々に設定値へ収束していく。
急激すぎると、発振してしまい収束しない。
パラメーターを調整することでオーバーシュートを出来るだけ抑えるのがPID設定の際の要点だが、変動の条件が常に一定というわけではないので、全ての状態変化に最適な単一のパラメータがあるわけではなく、プロセスに影響がでない範囲で設定できれば普通は良しとする。
もう一つの要点として、流量計と調節弁を適正なレンジとサイズで設計しておくことが大切だ。
この制御方式におけるプロセスの変化の推移は、社会におけるなにがしかの変化とそれに対する人々(制御する側とされる側)の振る舞いや現象に非常によく似ている。
ある意味、いずれもシンプルな原理がもとになっている現象だからなのだろう。
フィードバック制御の例
例えば、シャワーの温度がどのように制御されるかを見ればいい。
ある温度に設定していても、蛇口をひねってからしばらくは冷たい水が出てくる。
管路に残っていた水だ。
しばらくするとだんだん熱くなり、設定よりも熱い湯(安定してからの温度よりも熱い湯)がしばらく出て、次に設定よりも冷たい湯になり、やがて設定温度に安定する。
温度制御は、操作してからその結果が現れるまでに時間差がある。
管路を温めたり、冷ましたりして、全体として徐々にその温度に近づくからだ。
湯沸かし器が、もし最初から設定温度のお湯を供給しようとすれば、蛇口から出てくるお湯が設定温度まで上昇するまでの時間が長くなってしまう。
だから、湯沸かし器は、最初、設定温度以上のお湯をある程度供給し、管路が温まって出てくるお湯の温度が設定温度に近づくと、今度は設定温度よりも低いお湯を供給して行き過ぎを是正しようとする。
これが、フィードバック制御、つまりPID制御だ。
Pは真水、Iは歪をとる政策、Dは緊急対策のように対応付けられる。
特に、温度制御ではDを設定することで、速やかに温度を設定値へ調整させようとする。
フィードフォワード制御
フィードフォワード制御という制御方式もある。
こちらも社会現象を説明する、あるいは社会現象を制御するための手法との共通点が見いだせる。
ミクロ的に見れば、個人の経験が増すということは、フィードフォワード制御の懐が深くなるということだ。
加速するポイント、ブレーキを掛けるポイントが経験からわかっている。
但し、これらの制御は現象がある程度想定できる場合のものであって、移り変わる現実にいつもそのような余裕があるわけではない。
だから、現実社会ではもっと高度なアドバンス制御や、根本的なプロセスの変更が必要になってくる。
推測
数学の確率と統計が学校の授業で重視されていなかった理由は受験との関係にあったと記憶しているが、確率の法則や統計に基づく考え方は社会生活において実用的だ。
我々個々人が接することができる事象の数には物理的な制約が当然あり、全体のうちの一部分しか見れない、もしくは限られた情報しか持ちえない場合がほとんどなので、残りの部分をいかに補うかが大切になってくる。
(木をみて森と思うなかれ。形を見て測れると思うなかれ。)
その際に、見えていない部分を捕捉するための情報として、確率や統計、特に正規分布は有効なツールとなる。
但し、それを信奉しすぎても見誤る。
ミクロ的にみれば標準偏差に恨みを覚えてばかりだし、正規分布に全ての事象が従うわけでないことを、我々は経験上、あるいは確率的に知っている。
帰納法も同様に有用な手法だ。
但し、仮定や想定で条件を設定する場合の危うさを知っておく必要がある。
もちろん、相手がいる場合は、そこに意志や裁量が入ってくるわけだから、事象に一貫性を見いだすのは無理がある。
しかるに、事実をベースに情報の分析を正確に行えば、見えていなかった部分や広がりを捕捉して全体の合理性や問題の所在を明らかにする手助けとなる。
10人に2人の法則
何らかの選択をするとき、10人のうち8人はどちらでもよい、あるいは大事ではないと思っていることでも、1人か2人が、何らかの理由でどちらかにしたという意見を持っていれば、8人の意見に関わらず、1人か2人の案が採用される。
このような現象は、様々な場面で起こっている。
すなわち、決定は純粋な多数決で決まるわけではない。
釣り理論
釣りには辛抱強く“待つ”ようなイメージが強いが、短気な方が上達が早いといわれている。
工夫をしたりするからだ。
静かに待っているだけでは、成果に結びつかないということか。
釣りをしていて実感として持つのは、魚がいないところで竿を構えていても、魚を釣ることはできないということだ。
海の中は見えない。
今は釣れなくても、周遊してくる魚がいるかもしれない。
だが、そこに魚がいない(こない)としたら、どんなに頑張っても釣ることはできない。
プールに竿を構えているのと同じようなものだ。
2番目の罠
2車線の高速道路で追い越し車線をゆっくりと走っている車がいる。
すでに、何台も車が鈴なりになっていて、後続の車は先頭の車に対して不満を募らせいらいらしながら運転している。
気づいているのか気づいていないのか、先頭の車は走行車線へ移ろうとしない。
よくある光景だ。
この場合、先頭の車に問題があるのは確かだが、実は、2番目の車の罪も深い。
2番目の車は、先頭の車が遅いため後続に迷惑がかかっていることは承知だが、非は先頭の車にあると考える。
だから、自分が3番目の車にプレッシャーをかけられても、それを単に理不尽ととらえる。
先頭の車は、2番目の車からプレッシャーを受けないので自分の行動に疑問を持たず、その行動を継続する。
2番目の車は、むしろ内心はラッキーだと思っている。
先頭にプレッシャーをかけないのは、先頭に追従するその位置とその速度が心地よいからだ。
もし、先頭の車が走行車線へ移動すれば、2番目の車もあわてて走行車線へ移動するだろう。
望むべきは、2番目の車は3番目の車にプレッシャーをかけられた段階で、先頭の車に自らもプレッシャーをかけるか、あるいは速やかに走行車両に移動することだ。
ところで、この場合の先頭車両は、後方から押し寄せる危機に対して鈍感になっている。
遅かれ早かれ、この車両は、パトカーでもない限り、先頭から転落する運命にある。
ドライブ理論
ある地点から目的とするある地点へ移動する際に、何台かの車が時間を競おうとしている。
どの道を行くかは運転者に任せられる。
渋滞、時間帯、高速の利用、事故、車の性能、車のトラブル、運転者の性格、技能、経験、判断、体調、動機、インセンティブ、アドバイザー、ナビ、等々、様々な要素が作用する。
強引であれば、他の人に迷惑がかかる。
おとなしくて従順であれば勝てない。
競争とはそういうものだ。
芸術
芸術作品は、個人の才能、取り巻く社会、魂、努力と獲得した知識と技術から生まれる。
それを鑑賞する側も、五感を澄ませて作品と対峙しなければ、作品は単なる景色の一つになってしまう。
フレッシュな感覚というのはその人の羅針盤のようなものだ。
様々な芸術作品に触れることは、精神を開放し、リフレッシュさせてくれるとともに、自分というものを再確認するためのよりどころの一つに違いない。
ところでコンテンポラリーアートはオリジナリティという別の側面を持っていて分かりにくいが、いずれにしても、新鮮な視点と感性が伴わなければ成りえないのが作品だ。
存在と神
「一般理論」は有形無形を問わずその存在の肯定から始まる。
人が進化により獲得した最大の能力の一つは、ものを定義するという能力だ。
人は定義することでコミュニケーションをはかり、文明を築きあげた。
一般理論は存在を定義して批評を行うが、存在そのものについて否定することはしない。
否定は簡単だが、そこで世界を閉じてしまっては未来を語ることなどできない。
情報や能力は常に不確実性を伴う。
宇宙の果てのように、そもそも認識できないものもある。
知識がなくて理解できない場合や、正確でない知識しか持ち合わせないことを前提とする場合も多い。
だから、定義ばかりしていられないし、定義できないものとして定義することも当然ありえる。
定義すること自体が誤解の元になる場合もある。
人は容易に自分の都合でものごとを再定義しがちだ。
例えば、一般理論では神の存在を肯定する。
但し、その定義は、理解できないものへの畏怖が人格を獲得した存在、というようなものになる。
神は人間の不完全さに同調して心の隙間をうまい具合に埋めてくれる。
親や社会、学校の教育に限界があるのは、容易に間違いや誤りを犯す人間が教育を行うところにある。
人間の言葉よりも、神の言葉の方が間違いなく効果的だ。
宗教というのが人類の英知の結晶であったとしても、神の存在がロジカルでないことは今では誰もが知っている。
一方で、人間が何らかの宗教の影響下に入ることに対し、疑問を持つ人は少ない。
それがいいか悪いか、あるいは必要かどうかの判断をするつもりはない。
人間の存在自体が自然界ではアンバランスなわけで、地球の環境がダイナミズムに変動する原因となっている。
神との闘いに敗れた人間は、一部で抵抗を試みるも、この支配から逃れられる見込みは今のところない。
原罪とベジタリアン
人間の愚かさや未熟さを原罪という言葉で表現する場合がある。
人間が犯した過ちを、神の子キリストが身代わりとなって償ったという話もある。
確かに人は罪を犯しながらもそれを容認するために、何らかにすがらざるを得ない。
ベジタリアンは、人間の性への挑戦だと思うが、解決策ではない。
ムツゴロウさんは、必要な数だけ獲り、感謝して食べる、と言っていたと思うが、人間の本来の姿を肯定する言葉として同意する。
チャレンジ
チャレンジすることと成果を出すことは当然異なる。
チャレンジしたことに自己満足で終わっていては期待外れとなる。
一般理論の限界
一般理論は女性には通じない(ことが多い)。
比較的せまい生活空間で活動し、問題に対して情緒的に対応する傾向があるためだろうか、残念ながら一般理論からの解釈ではその場のもめ事の解決にならない。
女性は総じてボーダーを設ける傾向が男性よりも強いが、それは外からの攻撃に対して未来を守るプロテクトの意味がある。
一般理論は批判することが目的ではない。
そもそも、誰しも他人を批判できるほど偉くはない。
立ち位置
時代の先端
今生きている場所の名は、時代の先端。
みんなが共有している場所だ。
葉っぱの先端成長のように、成長できるのは、今の我々がいる部分だけ。
過去は全て、既に起こった結果。
ならば、今、我々の役割は、未来に向けて時代を築きあげることだ。
今だから出来ることを、
時代のダイナミズムとともに。
縁
確率的に考えると、日常、何気なく起こる事象や全ての出会いは、縁が取り持つ奇跡的な出来事としてしか説明できない。
我々は、運命ではなく、縁に支配されている。
制御できない場合は、受入れるしかない。
但し、制御できる部分もある。
意志により、表現により。
縁は、同時に、大切にしなければならない。
それは、奇跡に違いないから。
手段と目的
自由が目的ではなく手段であるように、手段は目的を実現するためのツールだ。
しかし、手段自体が目的とみなされているような場面を多く見かける。
とくに、管理社会においてその傾向が強い。
価値の基準
絶対的、相対的の両方の基準の中で我々は生きている。
但し、我々が通常、日常で基準としているのは相対的な基準。
これは、時間により、場所により、また、状況により変化する。
いつも同じではない。
理想に向けてがむしゃらになるのはいいことだが、ときには休憩し、自分がいる現実の場所と理想を相対的に比較して、どこに重みをおけばいいかを客観的に判断することも大事だ。
新しい価値観に直面した場合、それをどう取り扱うかによりそれぞれの運命が分かれる。
誰しも必要がなければ困難を選択したりしないが、違和感を感じたのであれば立ち止まってみる。
望まない困難が向こうからやってくる場合もある。
いずれにしても、困難を経験した者は強くなり、強いものはより広く深い。
価値観
価値観は社会的経験を通して形成される。
それは生活や文化のベースになり、共感を通して安定や結び付きをもたらす。
思い至るべきは、その価値観が形成された時期や時代背景だ。
価値観は歴史的蓄積を源泉としている。
価値観と思っていることの実態が、多くは単なる既成感であることに気付かなければ、物事の実態に近づくことはできない。
本当に価値観と言えるのは、身に染み付いたもののことだ。
日本人の価値観はつまり日本人を形成する基になるものだ。
日本人的価値観は、世界から批判されもし、賞賛されもする。
日本人は同じような価値観を共有している、というのが一つの特徴でもある。
それは面白みに欠けるかもしれないが、美徳な部分は維持すべきだ。
人間は未熟だから人間社会は未熟であり続ける。
普遍的な価値観を世界が共有して後世へ伝えることができるかどうか。
それが人類の未来を左右する。
事実を知る
事実を受け入れることは、自分の立ち位置を確認するためだけではない。
事実を否定したり事実を回避するのは、自らの思考を制限し自らの可能性を否定することにつながる。
自らが偽りの発信源とさえなる。
空想の階段を登っていっても、そこで目的のものは手に入らない。
事実を受け入れることで世界と時代のダイナミズムを知り、事実を足場に岩山を登っていくことで理想と空想の別を知る。
自分を知る
好む好まざるの両方で、機会という名の節目は幾度も訪れる。
機会は未知の世界を伴い、人は新しい場所をさまよいながら、新しい自分を発見する。
そして道を歩むほどに、人は成長する。
人が持つ性質は同じではない。
経験によっても出来ることに違いがでてくる。
では、はたして自分はどこまでできるのか?
自分に何が出来るかということを考えてしまうと、自らの可能性に制限を設けてしまうことにもなる。
舞台に上がりもしないうちに失敗のケースを想像して精神的に躊躇することは、成長の足かせとなる。
盲目的に恐れる必要はないし、それは非常に危険なことでもある。
分らないことに対して臆病になりすぎては前に進めない。
実は、トライしてどこまでが出来るかを知り、それ以上出来るようになるにはどうすればいいかということを考えた方が、ずいぶん楽だ。
舞台に上がってしまえば、できることをやるしかない。
きっと、人は自分で想像する以上のことが出来るだろう。
もちろん、無鉄砲ではいけないし、それだけでは後悔が目に見えている。
後悔からすぐに立ち直れるほどの強い精神を誰もが持っているわけではない。
要は、自分の物差しと、客観的な物差しの二つを持てばいい。
葛藤は必然だ。
敵を知り己を知らば百戦危うからず、というが、自分を知るためにも、まず敵について知ること。
この場合の敵は、実社会という名の外世界のことを意味する。
多様性
世の中は多様だ。
受け入れる柔軟性がなければ、頻繁に衝突が起こり、直ぐに行き詰る。
一方、受け入れてばかりでは自分の立ち位置がわからなくなりあやふやになる。
待っていては進まない。
判断して進んでいかなければならない。
方向性
ある地点から将来の別の地点へ向かう場合、時間軸で見ても、ルートで見ても、まっすぐに最短距離でたどり着くことはほとんどない。
何らかの障害や、新しいことに出会った際の対応などで、道をそれたり、ブレたり、立ち止まったり、駆け足になったり、場合によっては引き返したりもする。
先人が築いた道があったとしても、それをトレースできるケースはほとんどない。
物事は理想どおりに進まない。
人は容易に道から外れる。
だから道は、最短の直線をトレースするのではなく、バランスにより修正されながら、随時新しく築き上げられていくものだ。
(ぼくの前に道はない、ぼくの後に道はできる)
現実には、到達点がどこか分からない場合がほとんどだ。
例えば、未知の地点へ移動するとき、大多数の人は、地点間の直線上ではなく、その右か左を指向する。
それぞれの人が偏った価値観や思想を多少なり持っているからだ。
右を指向する人は、どんどん右にそれていき、左を指向する人は、どんどん左にそれていく。
そして、偏差が大きくなると、ほとんどの場合に修正が行われることになるが、そこで費やされるエネルギーは計り知れない。
大多数の人が右か左へそれた場合でも、つられてそちらへ行くべきではない。
築きあげた信念や信条に従い、見識と洞察を駆使して方向性を見極める。
この際、大多数からみれば、自分の行動は逆に映るに違いない。
少数かもしれないが、それは、バランスを回復する力ともなる。
独自性の発揮や優先権を獲得するために多数派と逆の行動をとるという手法がある。
多くの場合、この手法は反面的に先を制することができ、良好な結果を生む場合も多い。
但し、これは一つの手法であり、反対の行動をとること自体が目的になってしまうと、やがて道を見失うことになる。
方角
子供のころ、田舎で生活していたころ、北がどっちにあるかというのは重要なことだった。
はたして都会では、方角が分からなくても生活に困ることはない。
しかし、方位が分かっていれば、より俯瞰的に視野が開けもする。
電車で移動していると自分のいる場所や相対位置が分からなくなるという体験。
困らなくても、何か不安になってしまう。
才能に秀でた者は、流れに身を預けておくだけで自然に力を発揮するのだろう。
それがいわゆる主流派といわれる流れだ。
ただ、流れはときに滞留し、濁流する。
主流派であろうとなかろうと、方位を見定めておくことが大切だ。
この違いは、先端を生きる場合において大きい。
依存
人は、依存することで強くなることは確かだ。
例えば、宗教への依存、組織への依存、国への依存、導師への依存。
依存し、信じることで余計な悩みが無くなり、集中力は高まり、個々のエネルギーが集約される。
そのような力が多くの場面で実際に社会を動かしている。
歴史はを造ってきたのは、そのような力による部分が大きい。
道で布教活動をする新興宗教の信者の澄んだ眼。
迷いや曇りのない眼。
はたして彼女は幸せなのだろうか?
疑いを持たず信じ続けることなど可能なのだろうか?
拠りどころを持つことは自然な行為であるし、多かれ少なかれ人は何かに依存しているし、それは必要なことなんだろう。
しかし、程度による。
自分の責任を免れるための都合のいい理由になっているような場面もときに見かける。
少なくとも、間違っていると分かっていることを信じるというのは、人の弱さ以外の何ものでもない。
過度の依存は、信者や役人などがいい例であるが、組織を維持すること自体が目的になってしまうという結果を招く場合がある。
過去の事件を見ても、無制御の依存が大きな悲劇を生んでいる。
何であれ、依存することによってものごとが正しい方向へ進むということではない。
つらく厳しくとも、出来るだけ自分の責任と判断で行動することは、現代人に特に求められている条件の一つだ。
人間万事塞翁が馬
例えば、眼が良いとか悪いとか。
先天的なものを嘆いてもどうしようもない。
眼が悪ければ、どうすればより知覚できるかを考える。
そうすると新しい発見がある。
眼が良ければ、その特性を活かすべく考える。
そうすると高みへたどり着ける。
尊重されるべきこと
理想が先立ち、自分が言っていることの根本矛盾に気づかない。
そうすると、自分の経験が、他の人にとってお仕着せとなる。
人がそれぞれ違うということは、第一に尊重されるべき。
一般論
経験
人は刹那の誘惑に流される。
そして、経験して初めて実体(それは多分、一面に過ぎないが)を感知することができる。
経験しないものはすべて想像だ。
(想像は経験の副産物であり、想像も認識下において真なり)
経験し、自分の過ちと他我を知り、平等と不平等を知り、外の世界を知る。
同時に内なる世界の動揺を経験し、抑えきれない感情の波に身をゆだね、慟哭の末に静かな目覚めを待つ。
沸き起こる魂の叫びに耳を傾け、内なる世界を探求し、いつしか外の世界に活路を見い出すべく立ち上がり足を踏み出す。
経験を積むということは、つまり失敗を知るということだ。
内なる旅はやがて礎となり、踏み出す場所を強固に築きあげるとともに、まだ見ぬ先の世界への扉を開く。
試練
何度でも、試練は繰り返し訪れる。
正しいと思うことを為そうとすればするほど、試練は訪れる。
試練に立ち向かう術は、知恵という武器を持つことだ。
そして、独りよがりにならないことだ。
人生は厳しくて辛いものだ。
人は一人では生きられない。
ときには妥協し休むことも必要かもしれない。
人生は不平等だ。
ただ、ひっくり返すことができれば、痛快かもしれない。
文句
文句をいえば、誰かが共感してくれる。
文句を言わないと、自分が損をする。
我々は虐げられており、みんなのためにも文句を言い続けなければならない。
あるいは、文句をいえば、誰かが動いて処理してくれる。
結局のところ、文句をいうことで、自分の気がはれる。
文句を言うのは簡単だが、それだけでは無責任だ。
初心
初心忘れべからず、といわれるように、人は容易に環境にのまれて指標を見失う。
そのときに原点へ戻ることは、方法論としても有用だ。
但し、その指標は正しいのか?
変化する環境、変わらない人。
変化しない環境、変わろうとする人。
それが人間。
石の上
石の上にも三年。
我慢するのがいいことなのか、我慢しない方がいいこともあるのか?
この議論の結論は出ていない。
しかし、我慢するほど強くなる。
そして、強さは多くの場合に必須となる。
肝心なのは、他人を悪者にせず、へこたれずに、前向きに、謙虚に、解を求め続けることだ。
継続
継続は力なり。
では、どのような力か?
何かを継続するということは、精神的な安定につながる。
自信というよりも、拠り所に近い。
何かをできるかどうかといったとき、やったことがあればそこで確信できる。
何かをやるといったとき、既にやったところから始められる。
習慣づけないと人は落ち着かない。
何をやるにしろ、背景に継続性がなければ物事は成らない。
しきい値
人は経験するに従い、自分の中にいくつかのしきい値を設ける。
絶対領域、チャレンジング領域、アンタッチャブル。。。
これらのしきい値は、レベルが上がるとその新しいレベルで保持される。
ほとんどの場合は。
「失敗」というキーワードが、そのしきい値を一気に下げる場合もある。
しきい値を上げることができるのは、経験と意欲の二つだけだ。
いずれも環境がトリガーとなり、触媒となり、推進力となる。
都会のポテンシャルは、しきい値を上げる機会となり得る。
しかし、休息を取りながら。
大人と子供
大人だから頭がいいわけではない。
色々と余計なことを考える分、脳の中で使用できるキャパシティーは小さいかもしれない。
40を過ぎると衰えもする。
違うのは、知識と経験に基づく知恵、そして、繰り返しによるスピードといったところだろう。
知恵が活かせる範囲で大人に優位性があるものの、新しいことに対しては、子供に分がある。
「慣れ」は発想の硬直化を生み、間違いを犯す原因にもなる。
大人は知恵がある分強いが、弱くないというわけではない。
大人は悪知恵が働く分、厄介ともいえる。
交通整理
責任を伴わずに意見を言うだけの機会があれば、人は意気揚々と持論を展開する。
仕事においてさえ、そのような場面を見ることがある。
十人十色、共通の利益と目的を成し遂げようとするのであれば、だれか交通整理をしないと話はまとまらない。
ルール
人や社会が所有する財産を守るためにルールは不可欠だが、その他にも、ルールには個人や社会の活動をスムーズにするという効果がある。
それは、規格、標準、教育、あるいは道徳が果たすのと同じような効果だ。
ミクロ的にみるとルールは最適ではないかもしれない。
しかし、全体のことや関わりあいのことを考えれば、それは最善なのかもしれない。
人は、ルールに対し文句はいっても、深く考えることはない。
ルールは権威的だから考えても仕方がないからだ。
そもそも、いちいち考えなくてもいいというのことが、ルールの成り立ちとしてある。
ただ、違和感を覚えるのであれば、そのルールがなぜ必要かを考えてみることだ。
本当に必要なことが見えてくるかもしれない。
創造
創造はグループではなく個人の中に発現する。
なぜ個人なのか。
全ての創造が有益であるわけではない。
その点でグループから生まれる合理性は現実的かもしれない。
しかし、グループが大きくなればなるほどそれは保守的となる。
突き抜けるような、目の覚めるような創造は個人の中に生まれる。
それは、グループがインターフェースの点でいかに非効率であるかということを暗示している。
アナログへの回帰
科学が現実の一部を代替しているにすぎないということは事実なのだから、世の中の様々な現象を経験し理解する上でディジタルな思考は弊害にもなりうる。
基準になるとしても。
数学では方程式を覚える。
数学の定理や公式は、それを使用するという段階において想像力を必要としない。
それは、むしろ記憶力と応用力という意味合いのものだ。
国語には、数学のように一律の解はないという。
ただ、数学にも高度な創造性という領域がある。
だから学問がある。
真摯さ
ビジネスの分野に限らず、真摯さは実生活、実社会において最も大切なものの一つだ。
まじめであるといっても、社会ルールに生真面目に対応するという意味ではなく、自分の良心に真面目であることが大切だ。
そして、良心が、公平さをベースとしていることが大切だ。
社会的にまじめだといわれる人は、それはそれで偉い人だ。
教義的な束縛から、あるいは性格なので、結果的にまじめだったということかもしれないが。
ただ、それはそれで、継続するという結果の意味は大きい。
たまたまであったとしても、この世を支配しているのは運命だ。
ところで、能弁な君子は見たことがない。
感情論と大衆論
どちらも論理的でなく建設的でもない。
しかし、大きなエネルギーの塊であり、強大な破壊力を持つ。
歴史的に見ても、悪政を翻すことのできる最大最後の武器だ。
ある意味原始的なパワーであるが、普通に生活の中に見られる。
その源が不満や鬱憤であり、パワーの用途が否定と破壊しかないという点でとても危険なものであるが、現実を動かす力として意図的あるいは偶発的に使用される。
人は共感したがる。
共感や同調することに脳は快感を覚える。
乗り遅れまいと精神は高揚し、すがるものがあれば飛びつこうとする。
不満や鬱憤の排出口の番人は、堰を切る噴流になすすべもなく、その圧力が下がるのを待つしかない。
論理性や一貫性、代案や解決策が空想のレベルであっても、とにかく現状の打破一点に力が注がれる。
大多数は偏った知識と一方的で主観的な見地、もしくは誘導された状態で行動しており、客観的に深く考えているわけではない。
破壊後に、転嫁的に自らの責任を否定するのであれば、それは自己満足の行為と違わない。
正しいと思っての行為だとしても、それは閉じられた一部の世界での正義にすぎない。
精神の高揚がさめれば、自責の念にさいなまれるに違いない。
そうでなければ、人は成長しないし、その誘惑から逃れられるだけの強さを備えることはできない。
破壊は新たな創造を呼び起こす起爆剤になるかもしれないが、それ自体が創造のパワーではない。
公平でなければ是正されるべきであるが、ソルーションがなければ沈没することもあり得る。
唯一、目的が将来のためであり個人的に確信をもってのものであるならば、行動こそ最大のソルーションとなりえる。
常識論
歴史的・文化的背景を伴うような場合を除き、ある程度世の中に浸透しているシステムはシンプルで合理的なはずだ。
使いづらいものであれば誰かが反発するので、万人向けのシステムは最大公約数的に自然に受け入れられるようなものになる。
例えば、空港第2ビル駅といった場合、そこは第1ターミナルではなく、第2ターミナルの最寄り駅に違いない。
世界時計の機能があれば、その国へ切り替えるとアラームの設定はその国の時刻で働くはずだ。
そうでなければ大反発だ。
常識的なことをいちいち心配してもきりがない。
だからといって大きな影響がある場合は、検証しておかないと安心はできない。
気配りの法則
気は遣うものではなく配るものだと言った人がいる。
気配りはありがたい。
気配りがないと、気配りをすることで生じる手間以上の手間が他の人にかかる。
その結果、回りめぐって自分の手間が倍増する。
結果責任ということ
行為ではなく、結果の重大性により責任や罪を問われる。
つまり、同じ行為でも、結果により罰則が変わってくる。
そこには運不運が絡んでくる。
だから、行為で制限する。
行為が、法律や道徳、宗教などで規制される。
だから、ルールはトラブルを未然に防ぐために必要になる。
不運によってもトラブルに至らないように。
前提となるのは、秩序だ。
しかし、ルールは幸運を妨げることもある。
ルールは可能性を束縛もする。
そのルールの本来の意味がわかっていないと、誤解の上に希望の芽を摘むことになってしまうかもしれない。
靴を脱ぐ日本人
小世界の交わりにおいて、委任、あるいは自主性に任せる部分がある一方で、相互に共通化を図る部分が出てくる。
共通化を進める中で、情報の非対称性から二者間の紛争が発生するのは必然であるが、相手側の事情を正しく理解しようとする努力がなければ解決の糸口さえ見いだせない。
事実あり
海外に行った方が英語の上達はずっと早い。
子供の頃の体験が、家族のあり方や人との接し方に影響を与える。
軍隊における絶対服従。
スポーツでの自己暗示。
今あるチャンスを活かす。
誰もが人に文句を言えるほど偉くない。
技術系の会社でも経営は事務系が差配する。
血液型による性格や振る舞いへの影響、及び、それを信じない人。
性欲と性処理と道徳
アルコールと夜の街
太ると性格が穏やかになる。
錯覚、脳の認知的思い込み。
大きい人は余裕があり、貫禄を感じる。
病気は気から
重力
錯覚