趣味
仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。「―はxxです」
どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向。「―の悪いxx」「xx―」
(大辞泉)
本能的なもの、ネイチャーとしての自我からの欲求。
我々を取り巻く社会・生活・文化、仕事など、世の中への“関わり”に対する反作用、ストレスとしての発露。
様々な要素が混じり合いながらも、我々個々人が今を生きる中で、必然として溢れ出でて生の人間像の一面を形作り、考え方や行動にも影響する。
それは、成果ともなり、成果は新たな展開へと移行する。
いわゆるアート
純粋、大衆、工芸、装飾、云々、、
アートとは、芸術とは、、
そんなものはある意味重要ではない。
ただ、その由来や歴史的な背景を知っていないと、そこにつけられた評価や価値について何が何だかさっぱりというのが実情だろう。
知識のない人がコンテンポラリーアートを初めて見たとき、「何これ?」というのが正直な印象だろうし、そこに特別な価値は見いだせない。
マチスにしても、代表作だといわれても、やはり、「何これ?」だ。
様々な表現があり、ジャンルがあり、膨大な量の作品が存在する。
専門家のみの限られた世界で展開されるアートもあるようだが、我々一般人が、普段の生活の中でどのようにアートと接することができるのか。
マンガ
マンガをアートと呼ぶのははばかられるし、聞いたこともない。
大抵の人はそういう意識さえもっていないだろう。
どういう風に受け取るかは、読み手側の姿勢によるところが大きい。
多くの読み手は娯楽として読み、ストレスを発散させる対象として位置づける。
降り注ぐあまたの情報の一つとして、あるいは、わき出でる湯水のごとく扱われ、作品にアートの側面から光が当てられる機会は少ない。
でも、それを“絵力”と言うのだろうか。。。
それはもちろん、単に“絵”だけではない。その創造、創作、展開、そして昇華、つまりその“作品”から、我々は感銘や感動を受け、それは我々の生活の要素となり、人生の一部にもなる。
日本の優れたマンガ環境は、今を生きる我々にとっては幸いである。創造の結晶ともいえる作品を、何の苦労もなく味わい、恩恵を享受することができる。
しかるに、すぐれた才能がそれを欲している人に届かぬまま、大量の印刷物に埋もれながら放置され、廃棄されていく場合がある。
ホンモノの才能や作品は、我々の手の届くすぐそばにある。
映像と偶像
映画を語るつもりはさらさらないが、語ってみたくなるときはある。
みんな映画を見るのは好きだ。
素晴らしいと感動し、納得し、考えさせられもし、楽しみ、夢想し、現実をしばし忘れさせてくれる。
共有したいという思いもでてくる。
映画とかには一種の総合アートの側面がある。
映像を通して触れる世界。それが、見えている部分だけの、虚構の世界、作り上げられた世界や作品であるとしても、我々の感覚を惑わせ、熱し、振るわせ、憧れさせるものがそこにある。
ところで、映像を通して伝わってくる政治の世界は、筋書きも役者もひどいもので、まるで茶番劇だ。
虚構の世界といえなくもないが、これが現実なのかと思うと、さみしくなってくる。
我々が体験している現実は、ときにどこまでも手厳しい。
現実よりも偶像やヒーローに刺激を求める傾向はよく理解できる。
偶像やヒーローといえば、アイドル、ミュージシャン、俳優、芸人、スポーツ選手やアナウンサー、はたまたドラマや映画の主人公...
それぞれの人の歴史に、偶像やヒーローから受ける影響は計り知れない。
インターネットが隆盛したこの時代、様々な映像や情報が容易に入手可能になってきている。
但し、それらは広く薄くなってしまった。
ところで、AVにおける映像の変遷は、現在を生きる我々にとって、まさにダイナミックな展開であった。
詳細を語るのははばかられるので、ここではふれないが。