人間論


人間世界

正直ということ

不完全な人間が作り上げる世界はいつまでたっても不完全だ。
継ぎはぎの段差に煩悩や呪いが渦巻く。

だから、人は希望を胸に抱き、理想に生きようとするのだろう。
たから、人は相容れようとしないのだろう。

人は生きる上で何度も、受け入れざるを得ない、しかし取りこまれてはならない現実に直面する。
何か大きなものに取り込まれると、人は考えるのを止めてしまう。

人を見てきた。

この世界には、実は客観などというものはない。
自分の見た世界が自分にとってすべてだ。

自分がなくなれば世界もなくなる。
すべては自分の色眼鏡で見えた世界の話だ。

しかし現実には、自分がなくなっても世界は存在する。
世界は、主観による自己の集まり、群れからできている。
それに気付きながらこの世界を生きるということは、必然であったとしても容易なものではない。

自分の小世界(スモールワールド)からどんなに離れていても、すべてはこの世界の事実を受け入れることから始める。

それが、正直ということだと思う。

人は間違いを悔いながら生きる。
人を傷つけながら、自分も傷つきながら、
そして何かを償いながら、学びながら。

自分らしさ

自分らしく生きるとは、
そんなことができるものなのか。

自分らしさを貫く、
誰ができるのだろう。

人は常に誰かに評価されることで自分の指針をはかっている。
自分がどう生きるのかを貫ける人とは、どんな人なのか。

生きる行為は、人の評価を期待する試みの連続だ。
相手がいなければ、何も成り立たない。

誰しも社会の壁に反発しながら生きている。
その中で、社会に写る自分の姿を知る。

最初は新鮮であり異端であっても、成功は迎合を招く。
評価されて、受け入れられてしまうからだ。
安易な解を探り、居座ってしまおうとする。

だからこそ人は、常に、自分を超える必要がある。

いたるところに堰がある。
それは、境界をなす。
打ち寄せる波はそこではじかれ、返す波となる。

ただ、堰はそれほど高くない。
その上には、空間が広がる。
穏やかな日は、何も起こらない。
しかし、一旦荒れると、堰は前線となる。
堰を乗り越えるエネルギーは、風であり、潮力だ。

特異的にエネルギーが高まると、波は容易に堰を乗り越え、
乗り越えるばかりか、もはやどうしようもないほどの勢いで他方を飲み込む。
そこに正義とか不正義とかの定義はない。
堰とはそういうものだ。

堰を乗り越えるエネルギーを得るには、二つの要素が必要となる。
一つは知であり、もう一つは動機だ。

動機があっても知がなければ為すことはできない。
知があっても、動機がなければ何も創造されない。

知は、獲得すべく努めるしかない。
動機は、そこにいるだけでは生まれない。


人間観察

役者

人は誰しも人生を通して役作りをする。
良い子であらねば、強くあらねば、正しくあらねばと。

「いい子だよね」から始まる暗示。

社会人は、社会人としての役を演じる。
維持可能でなければならない。

しかし、誰もが完ぺきではない。

人格s

一つの個体にはいくつもの人格が潜んでいる。

欲望に囚われたとき、窮地に陥ったとき、気分が沈んでいるとき、気分が高揚しているとき、それらに応じた人格が現れようとする。
普段は人格たちが互いに協定を結ぶことでバリアーとなる穏やかな人格を形成している。
それが、環境や状況によってある部分が薄くなった結果、抑えられなくなって飛び出てしまう。
油断していると現れたりもする。

それはときに、全人格の代表であるかのように振る舞い、自らの人格の勢力図に変化を与えたりもする。

バリアーは、経験、特に困難な経験と信念を触媒とすることで厚みを増す。

二面性

本能には守りと攻めの二面性がある。
その組み合わせで人の行動は成り立っている。

不足

若いころ、友人に次の仮説を言ったことがある。
社会生活になじめない人は、人の性質において何かを持ちすぎているか、あるいは、何かを欠いているかのどちらかだ、と。
その友人は即座に、自分は欠いているほうだ、と言った。

その時の趣旨は、たとえ何かを欠いていたとしても、他の性質が不足を補うために通常よりも優れ、ひいては普通の人の及ばない領域へ行くこともできる、というものだった。

ぼくは、彼の中に見た光を、なんとか表の世界で表現することができないものかと願ったが、現実には何もできなかった。

才人と凡人

皆、制約の中でもがき葛藤する。
そんな中で、ときに輝きを放つ人が現れる。

人は、それを才能という。
であれば、才能のあるものはその才能を開花させるようにそれに磨きをかけることだ。

凡才であれば、凡才ながらに努力することだ。
小さな輝きであっても、それを見ている人は必ずいる。

規律と裁量

実社会を生きる人間は、規律を重んじる者と自らの才覚で道を切り開こうとする者に分けることもできる。
それは、態度や振る舞いにあらわれる。

能力のあるものほど概して後者の傾向があるのは必然かもしれないが、一人で大きな仕事をすることに制限がある以上、組織としての力を必要とする。
そうすると、人は全体の中で自分がどのような役割を担うべきかを考えることが求められてくる。

影になり目立たなくとも、内なる輝きは強く眩しいものだ。

普通

普通が大部分を占めるのに、普通の代表というのはあまり聞かない。
代表という時点で、普通ではなくなる。
普通である以上、代表は努められない。

普通が正しいわけではない。
人数が多く安心なので、それを続けたいというだけだ。

普通でないということは、優れているか、劣っているか、外れているかのどれかだ。

光が当たるのは優れている場合と外れている場合だ。

普通の人は、普通でない人に憧れる。
光輝くことを。

普通であることを選んでおきながら、普通でないことに憧れるというパラドックス。

落差

会社や公共の場など緊張感を維持しなければいけない場所や場面をオン、休日などでのんびりできる時間や場面をオフとする。

オン、オフに関わらず常にしっかりと規則正しくあるべきだと考える人や、それを実行する人もいるらしい。
道徳的指導の賜物なのか、本来の性格や資質に由来するのかは知らない。

大多数はオンとオフに落差がある。
例えば、オフの日はなかなか起きない、グータラしている、だらしない。

そのような人は、会社や公共の場で自分を高めるために何らかの努力をしている。
オフの面しか見なれない周囲は、その見立てにおいてその人にそれ以上を期待する。

維持可能なのかどうか。
維持可能だとしても、それはオフのアンバランスとのセットによって成り立つ。

普段からしっかりしている人からすると、そのギャップが理解できないのかもしれない。

ヒーロー

子どもたちはヒーローに憧れ、ヒーローになりたいと思う。
歳をとると、ヒーローが現れてこの世界を変えてくれないかと思う。

自分がヒーローになれないことが分かっても、誰かが自分のためにヒーローになってくれることを願う。

もちろん、ヒーローは必要だ。

文化、芸術、学問、スポーツ、なんでもいい。
このどんよりとした重い空気を一掃するためには、晴れやかで勇気づけられる偉業や希望となる偶像が必要だ。

ヒーローはいた

ヒーローはいた。

地道に生きる中、夢破れた別世界を直視出来ないとしても、今出来ることに鍛練を深めながら現実を正視しそれを矜持とする。
それができれば、自分は自分の中でヒーローになれるに違いない。

低位安定

維持可能性という言葉が言い訳になったとしたら本末転倒だ。
本来の力を発揮できずに、低位安定することになる。

自分の限界を知るために、人は人生で幾度か挑戦しなければならない。
人それぞれに、取り返しのつく範囲で。
その環境が、本人が望んでそうなったわけではないとしても。

自分を知り、経験し、耐性を上げる。
その結果維持可能ではないとすれば、それは多分、維持可能ではない。
無理無茶をしないというのはそういうことだ。

確固たる決意

あるいは信念とは?

自分の中では絶対的。
周りとの関係においては相対的。

壁を超える力となる。
信じるものは強い。

信じることは、知りえる根拠や理由に勝らなければならない。
なぜなら、世界は未知に溢れているから。

その効果は論理的に説明できる。
しかし、なぜ挫けることなく維持できるのか?

それが普通の人にはわからない。

善人なおもて悪人をや

いまでも人は善人でありたいと欲し、善人になることを目指す。
しかし、本当の善人は、変革する力を持たない。

人の行動タイプ

三つに分類できる。

普段から自分に課したルールに従い行動する人。
最もブレにくい。
しかし、規律事態が危機に瀕した場合、大きく崩れる。
また、相手によっても基本的に対応を変えないので、相手のことを十分に理解する必要もない。

臨機応変にルールを適用する人。
その場の状況や相手のことが理解できないとバラバラになってしまう。

その場その場で最適な対応をする人。
洞察力に優れた人で、基本的にコミュニケーション能力が高い人だ。

ルールとは

ルールは誰が決めるのか、といえば、自分に違いない。
法律、規範、道徳、といった世間のルールを含め、最終的にそれを適用するかしないかを決めるのは自分だから。
だから世界は多様だ。

現実からすれば、全ての社会ルールは自分のためにあるわけではない。
他方、社会ルールを維持することが正義と信奉する人もいる。

現実論者からすれば、ルールに束縛されることは大きな過ちに違いない。
なぜなら、現実はルールよりも多様だからだ。

ときには、新たなルール作りにおいて既存のルールを変革しなければならない場合もある。
そんなとき、専門家なる人たちが現れ議論となるが、既存のルール側の立場の人達は社会正義の観念をよく持ち出す。
その人たちの主張は、現実論者からすると理想論でしかない。
鈍感なのか、思い込みが激しいのか、保守なのか、単に今の幸せを維持したいのか。

多様性があるのでどうでもいいが、今、そこに力点を置くべきかどうかを判断する能力がもっとも重要だ。

バス理論

例えば、バスや電車で、誰が座るべきか?

疲れ具合、年齢、性別、健康状態、体型、乗客の構成や関係、荷物や子供、乗車区間、乗車時間、意思、モラル、ポリシー、プレッシャー、無知、慣例、習慣、席の仕様、プライマリーシートの状況、位置取り、隣の人、込み具合、等々。
それらの程度が相対的に関係する。

では、それらを実際に判断できるかというと、明確で目に見える状況でない限り、誰も判断などできないし、誰もそんなことに関わりたいとは思わない。

早い順が平等でないことはみんなわかっている。
しかし、先に座ってしまえば、立つのも煩わしくなる。

わざわざ二人掛けの通路側に陣取る人もいる。
座ったとたんに自分の世界に浸る。
誰かから攻められるわけでもない。
座れなくても我慢できることなのかもしれない。

一方、優先席に座らないのは主義とばかりに混んでいるバスの中で空いているその席の前で踏ん張る人がいる。
周りで立っている人は精神的なストレスにもさいなまれる。
その仏頂面のおばさんに、「すみませんが邪魔になっているので座らないならズレて下さい」と言わねばならないのだろうか。

このように、現実は動いている。
そのようにして、人は運ばれていく。

バス停にて

バスに乗り込む直前、飲みかけのパックコーヒーをビルの柱の台に放置し、乗り込むと二人がけのイスを一人で独占する。
すぐにスマートフォンを始め、自分の世界へ入り込む。
そんな大人は治らない。

書く人

言葉の力を信奉する人たち、例えば一部の弁護士や論説者、は、人権を主張しながら敵の人権を尊重しないという、まさに言葉の暴力の応酬を展開する。
言葉へのうぬぼれ、揚げ足取り、自己主張と正当化、他人をおとしめる。
言葉の美しさと徳は一致しない。
なのに、そうであるかのように彼らは振る舞おうとする、その態度が見える。

企画書、提案書、議事録、レポート、小論文、記事、等々。
巧みに、的確に、要点を外さず簡潔に分かりやすく文章を書く人、が世の中には案外大勢いる。
それは武器であり、才能、努力、経験などの賜物と思えるが、では彼らが素晴らし小説を書けるかというと話は別になる。

発想力や想像力というのは、むしろイメージの展開であるから、言葉で組み立てていくようにはいかないのだろう。
感性の問題かもしれない。

書く力は表現力でもあるが、自らに内包する矛盾やストレスの発露という現象でもある。

文章の巧みな人は、総じて想像力が豊かではない。
言葉による表現に頼りすぎるから。
言葉で組み立てようとする。

一方、想像力の豊かな人は、文章は苦手なのかもしれない。
難しい言葉や表現がなくても、想像は可能だから。
想像が先走る。

想像力を文章に表現できる人がときどき現れる。
そのような人は、本物の表現者となり得る。

よどみ

よどみはどこにできるか。

成長を前提条件として考えれば明らかだ。
つまり、老いたとき、そして、目的を失ったとき。

小世界の罠

人は小世界で当たり前のように横柄になる。

いつの間にか一面的にしかものを見れなくなり、権威に従順で、自分に害をなそうとする者を敵と見なす。
そのような人間をたくさん見てきた。

そのような世界がいくつも現実に存在している。

ただ、そのような人たちが最後まで小世界を維持できるのかどうか。
多くの場合、そのような小さな世界は死よりも先に終焉するだろう。

大世界の罠

頭のいい人や弁の立つ人が常に正しいわけではなく、常に立派なわけでもない理由について。

それは世界が広く深く、いくら頭が良くても解明できていない、解明できないことの方が多くあるという事実から説明できる。
つまり、逆説的になるが、正しくなくても、立派でなくても、頭がいい人や弁の立つ人は、正しい、あるいは立派であるかのようにみなされるのがこの世界だ。

欠陥

誰もが欠陥を持つと考えた方が筋が通る。
そして悩みながらも生きていく。
欠陥を否定するのは自らを否定するに等しい。

不完全な人間であるならば、何かに頼らなければ自分を支えられないのかもしれない。
そして不完全であるがゆえに、頼るものがあるほど強くいられるのかもしれない。

我想う、故に世界は為る

自分が捉えた世界がすべてであるのならば、自分が存在しない限り、その世界は成立しない。
従って、その世界は自分の世界であり、自分を中心に成り立っている。

確かに、そのような考え方はあるし、否定するものでもない。
危険かもしれないが、ある意味、それが競争力の源になっている。

現実論としても、そのように考える人の方が人生を謳歌している。
独善的、差別的、排他的、等々、そのような批判があるとしても、成果については正しく評価しなければならない。

報道の暴走

なんでもないことをことさら演出効果で盛り上げ、成果よりも話題性を重視し、敬意でなく粗探しの視点でアプローチし、一方的な検知から正義のように報道する。
仕事の密度とその反動は対のものだ。
一断面をクローズアップして落ち度を晒すことに、報道としての矜恃はないのか。
ほとばしる妄想、ヒステリー、自意識、功名心が堰を超えて溢れ出し、 タガを曖昧にし、狂器となって「敵」の精神を攻撃する。
それは濁流となって我先にと暴走し、徹底的に、誰が先に敵を屈服させることができるのかということが目的となって執拗に継続される。

評論家が立派な人間のように思われることも、彼らの思い通りなのだろう。
彼らは一体、何を為したのか?

人の進歩

その人を見ていると、考える力がないわけではないが、新たな道を見つける力、つまり、想像力を働かせ、考察する力が弱い。
興味があったり、知っている方向について探求する能力はある。
見ていると、すぐに暗中に陥り進むのをやめてしまうような感じ。
そして、もといた場所へと戻る。
大きく考えなければ人は成長しない。

煙草を吸う人

煙草を吸う人の言葉は、何を聞いても嘘っぽく聞こえる。


燕の目

地上の世界

世界の本来の姿は、丸と四角と円錐で成り立っているのかもしれないが、それらが絡み合い折り重なって複雑な形状を見せている。
それが簡単にほぐれず、本当の形が抽出できないために、世の中がいっそう混沌となっている。

だから、人はどこを踏ん張ればいいか簡単に分からない。
何らかの拠り所がなければ立っていられない。
何らかの形でバランスを取っていないと自分を活かせない。

幸福論

一人ひとりにとっての最大の、そして究極の目的が幸福だというのは、才能や機会に恵まれた強者が自らのモチベーションを高め、最大限のパフォーマンスを発揮するための、あるいは自らの成果と行動を肯定するための、いわゆる幸福を実現した人が語る自分のための幸福論、もしくは自分が幸福を享受することへの言い分。

一人の幸福は他との相対の上にある。
ひがみの上にある。
幸福だけで成り立つものではない、つかめない。

幸福の定義があったとしても、それは比較論に違いない。

人間の中の矛盾、自然の中の不自然さ、存在の意図について説明できない。
見えていない、見ていない。

人を豊かにする芸術のほとんどは幸福から生まれたわけではない。

幸福でありたくても幸福になれない現実、人間の性、この社会の仕組みを度外視して、他人の幸福を語ることなどできない。
苦難の現世を生きるために、あの世での幸福を願う者もいる。

ただ、彼ら強者が世の中に貢献していること、この世界に必要とされることも事実だ。

幸福論を高らかに述べても不幸な者は不幸であることに変わりないが、幸福な者は不幸な者に希望を与え、不幸な者は幸福な者に自らの思いを託し、彼らはヒーローとなり、ときに救済者となる。

幸福はとても素晴らしいものだ。
しかしそれは結果の一つであり、表現の一つの到達点だとしても、それがすべてではない。

普通でいられるということが既に幸福であるということが、世界を見ればわかる。

平等

人は生まれながらに皆平等だという。
偉い人が言っているし、常識のように世の中に受け入れられている。

なぜ平等と言われるのだろう。
人は生まれ落ちる場所も、与えられる能力も平等ではない。

命の重さであれば平等かもしれない。
それは重すぎるため、計ることができないという意味で。
ただ、それさえも戦争が始まれば軽くなるようだ。

相対的な才能や経済性の優劣などはほんの些細なことなのかもしれない。

例えば、ほとんどすべての日本人は過去よりも、経済的にも知識的にも優位にある。
なのに、過去に比べ幸せに大きな差があるとも思えない。

幸せというのも曖昧な概念でありそれがすべてではないとしても、一生を終えるときに幸せだったかどうかという問いはある程度意味を持っているのかもしれない。
幸せであってほしいという願いとともに。

幸せの一面が苦難からの解放にあるとすれば、幸せの深さは苦難の振幅と長さに何らかの関係があるのだろう。
ただ、苦しくて死ぬことがあっても、幸せすぎて死ぬということはない。

あらゆる感覚が、自分の立場、経済的なものや才能、性格、容姿を含め、における主観に基づくということからすれば、多かれ少なかれ痛みや満足といった感情は人に平等に訪れるのだろう。

人は成長しなければ成果を出せない。
そして、人は成長するために試練を必要とする。

だとすれば、試練は人それぞれに与えられなければならない。
それぞれの立場や才能において。

平和でなければならない。
奢ってはならない。
でなければただ混沌を招く。

人は生きる権利を持つ、ということについては、確かに平等でなければならない。

子ども、若者、中年、老人についていえば、子どもは老人よりも尊重されるべきだ。
これからの時間が違うという点において。

敬意についてではない。
弱者だからということではない。

老人達が若い世代と同じように権利を主張すると、その主張は必ず必要よりも大きくなる。
社会に混乱を招く。
今の世の中は、だから混乱している。

怒りのエネルギー

いかる、もしくはおこること。

叱咤激励、教育的指導。
一方で、パワーハラスメント、重圧、紛争、爆発、委縮、閉塞、抑止、受動、事なかれ、非生産、硬直、決裂。

湧き上がる感情。
不正義、不条理、理不尽、無理解、誤解、ビジネスカルチャーの相違、価値観の相違、無遠慮、浅はか、思い込み、憶測、逼迫、プレッシャー、ストレス、自己防衛、混乱、反動。

吠える犬。
高圧、必死、怯え、不信、陰湿、妬み、弱みや弱者への攻撃、制裁、嫌がらせ、弁明、麻痺、快感、都合のいい解釈、変化する顔、心の闇。

仕事には以上のすべてがある。

相手をおとしめるために怒るのは最低だが、怒るという行為自体は社会において肯定されている。
それは明確なステートメントであり、より的確に相手へ伝えられる。
相手への効果だけでなく自らを奮い立たせるパワーとなり、相互のエネルギーを高め合う。
結果として成長を促し、改善や変化を起こす触媒となる。

識者は言う。
自分の気持ちを晴らすために相手に当たるのではなく、相手を思って怒る。
相手を伸ばそうという気持ちで怒る。

それは、実社会で生き抜くための回答ではない。
怒られることで人は成長し物事が改善するという事実に対しての都合のいい肯定論のようなものだ。
境界線がそもそもはっきりしない。
現実に皆が全てそうなることを期待しても意味はない。

怒る人は、自分が嫌な思いをしたことをバネにして怒る。
それだけの覚悟と自信がある。

しかし、若い人には成長過程で怒られてきたという経験が相対的に少なく、過酷なことや怒られることに対する耐力が劣る。
成功者による過保護とバブルの憂いがそうさせた。
恵まれた環境で育まれた若者は、彼ら独自の価値観を持つ。

会社が彼らに試練を与えることは必然のなりゆきだが、競争のために彼らを排除するばかりではその会社のソルーションになることはあっても、社会のソルーションにはならない。
排除された彼らがそれをバネにパフォーマンスを発揮するとは思えないからだ。
移りゆく時代ごとにソルーションを見つけてこそ、あるいは見つけるというモチベーションを持てるかどうかが、我々の未来を左右する。

感情に任せて怒ったことが好結果につながるのはよく見られる光景であるが、そのような人は、ある意味時代に認められているのかもしれない。
時代が必要としているのかもしれない。
ただそこに理念がなければ、それだけのことかもしれない。

地位と名誉を手に入れた人の多くは強い個性とリーダーシップを備えている。
怒りは、リーダーシップの一つの表現だ。
但し、怒りだけでは精神的支柱にはなりえない。
大いなる精神は忍耐を伴っているものだから。

怒りの制御、熟慮、辛抱、忍耐、我慢強さ、修行、その先にあるものは?
怒りのぶつけどころは?

怒る人は、自らをも傷つける。

苦悩

我慢強いのは美徳に違いないが、余裕をこいている人よりも、ぶつかって苦悩する人の方が立派だと思う。
良くしようと行動した結果なのだから。

後先を考えない行動が前進をもたらす場合もある。

世の中には余裕のある人もいるが、いっぱいいっぱいの人も多くいる。
反骨心を忘れることが、正しい道というわけではない。

勝者

彼らは自信にあふれ、誇りに満ち、自分の体験こそが理想であるかのように、そして発信するのが義務であるかのように、高らかに宣言する。
「・・・である。」、「・・・だ。」

社交性や努力型など、そのような性格に恵まれたものはその延長線上で勝者になりうる。
しかし、彼らから多くを学ぶことはできない。

態度や姿勢は学ぶべきものだが、性格は学べない、学ぶものでもない。

絶対論と相対論

わざわざ確認するつもりもないし、自ら宣言するわけでもないが、情報を発信する立場において絶対論なのか相対論なのかは、その人が何を言いたかの見極めに必要となる。
最も、一般理論の『認識論』『人の色』で述べたとおり、人を理解したつもりになることが間違った理解の原因になるのだが。

絶対論はやさしい。
正論を言えばいいからだ。

相対論は分かりづらい。
あるいは伝わりづらい。
ぶれているという印象を与えもする。
Ref. 一般理論/方向性

相対論からすれば、絶対論はもどかしく歯がゆく感じることもある。
本来であればいずれのスタンスも尊重されるべきだが、絶対論の方が聞こえはいいのだろう。
共感する人たちにとっては、我が意を得たりとなるのだろう。

自己肯定論者

歯切れがよく、自信に満ちたしゃべり方をする。
すっきりして分かり易い。
よくぞ言ってくれた的な感傷を、同調者へ与えてくれる。

一方で、明らかな知識不足であるにもかかわらず、断定的な物言いになってしまう。
あたかもそれが正しい道であるかのごとくの錯覚を与えてしまう。

見えている部分のみを肯定し、そこがクローズアップされるため、一方的な議論にも陥りやすい。
何かやらなければならないとき、それは行動力につながるのだが、無意識の同調者とともに意見を形成してくると厄介な存在にもなる。


誰しもの教訓

誰もが経験し、誰もが得る教訓。

何のために勉強するのか?

という問い。

小学校の先生は、大人にならないと分からないといった。
いい高校に入っていい大学に入るためにみんな勉強を強いられるのかと思っていたが、きっと子供には分からないような深い理由があるのかと、そのとき思った。

中学二年のとき、先生が、なんで勉強しないといけないかもう分るだろう、といった。
分からなかった。

中学三年のとき、どうやらいい高校に入るために勉強しないといけないらしい、ということが分かった。

今、高校の時にもっと国語や古典を勉強しておけばよかったと思う。
もっと英語を勉強しておけばと。

社会に出てチャレンジし、最高のパフォーマンスを発揮するための準備として、多種多様な社会生活を満喫する手段として、色々と勉強しておくことは大切だ。

春の訪れ

雪が解けると何になるか?

水でいいではないか。
それをあえて「春」という教師。

なるほど、と一旦はうなずいてしまったが、同時に違和感を少し感じた。

よく考えると、雪が解けると春になる場所などあるのか。
少なくともここにはない。

雪国では、雪が解ける前に春になる。
温かい国では、雪が降ってもすぐに溶ける。

教師の画一的理想。
この教師の言葉に感動した者がやがて教師となる。

これが日本の教育の一面だ。

太った坊主と占い師

習慣として坊主は必要だが、坊主ほど社会のバランスからはみ出ている存在はない。
普通であろうとすると、坊主は自然に太ってしまう。

金銭欲でまるまると太った坊主となると、これ以上に醜いものはない。

占い師はなぜうそを平気でつくことができるのか?
それが、世の人の望みなのか?
その人のためになるということか?

太った坊主と占い師は、正直、詐欺師と区別をつけがたい。

誘導する人

それは独善と背中合わせでもあるが、人間は自分に都合がいいようにものごとを誘導しようとする傾向がある。
意識的あるいは無意識であるかに関わらず、そうしないと多くの場合は相手側に引っ張られてしまうからだ。

だから、人の話をうのみにしてはいけない。

出会い

それこそ奇跡。
友人、ともに過ごす少年・青年時代。
それが思い出になっても、分かち合った時間は生きている。

学校の先生

学校の先生、特に若い先生が、如何に未熟であるということが、誰しも大人になれば分かる。
ただ、若いなりに、未熟なりにその魂で訴え行動すれば、届き共感するものもあるだろう。

お金の管理

お金を扱う、管理するという点において、10万も100万も同じ。
1万を粗末にして、如何に大金の管理ができるだろうか。

食欲

出来たて三倍増し。

冷めてから食する場合を1とすると、それを温めて食べると2の味わいとなる。
出来たての料理からは、冷めた料理の三倍の味わいが得られる。

それは、料理のおいしさだけではない。
雰囲気の暖かさや、思いやりなどが、料理を一層おいしくさせるからだ。

おとなしい人の凶行

おとなしい人は、突然とんでもないこと(犯罪)をするという話。
どこまで真に受けるか。

まじめな人ほど切れると何をするかわからないというが、自分はそれなりに抑えることができた。
今では年齢もあって大それたこと自体できない。

ただ、振り返ってみると、切れるか切れていないかに関わらず、凶行をしでかすかどうかという境目がどこにあるかについては自分にもはっきりと分からない。
環境が少し異なっているだけで、結果は異なったと思う。

友達の首をカッターで切って死亡させたという小学校の女の子。

しでかした行為の影響度が全ての結果を左右する。
抑えられなかった人、その状況とは?

古き良き時代

古き良き時代はあったらしい。
自分は知らないが。

会社の接待でキャバクラや果てはソープまで。
会社旅行で国外の慰安施設へ行ったり。

人は将来を憂うこともなく日本は世界を驀進中だった。

一か月海外へ出張すれば家が建つ。
そんな会社もあったらしい。

金があれば使う。
日本経済が潤沢に金で潤った時代。

そんな時代はもう来ないので、そんな時代に憧れようがその行為を軽蔑しようが意味はない。

浮世離れ

小中学校のころのある疑問。
「勉強ばかりして特定の仲間とのみ付き合い周りから浮いている頭のいい者達が偉くなって日本をリードするようになったら、正しく日本を導けるのか?」

ずっと頭の隅に残っていた疑問だが、鳩山政権の失政によって次の確信を得た。
出自がよく優秀な頭を持っていて世俗の荒波を経験せずに育った人間は浮世離れする。

理想は民意とともに、民衆のためにあったとしても、民意や社会の現実を理解することができないため的外れ的な理想主義に陥った。
それが己の信条だとしても、それはほんの一握りの人たち(自分の仲間)にとって意味を持っているに過ぎない。

葬式

葬式に出るのは自分が死んだときに葬式にぐらい来てほしい、そう人が思うから人は葬式に行く。
残った人のことを気遣って葬式に行く。

しかし、死んでしまった人のために行くわけではない。
死んでしまった人には何もしてあげられることはない。

それでも、人は葬式に出て、墓参りをし、死んでいる人に思いを寄せる。

それは、何もできなかったことへの、これ以上何もできないことへの、自分に対するケジメのようなものだ。

礼儀

礼儀の大切さはいうまでもないとして、一般理論でいうと礼儀は目的ではない。
従って、深くこだわるところではない。

伝統、価値観、根っこ、社会の基盤。

格式、演出、言葉、服装、所作。
日常から際立たせ、おごそかで謙虚な雰囲気を作り出し、エネルギーが集中し精神は高まる。

そんな中、一般理論ではその精神性を注視する。

要は表面的なものに陥っていないかどうか。

相手により態度や声のトーンを変える。
その心の中身は?

因襲、もしくは繰り返し

先輩にいいようにいじめられた後輩が、先輩になったときに後輩に同じような仕打ちをする。
そんな行動をとる人間は信用すべきではない。

同義的な点はもちろんだが、発想や考え方が貧困で脆弱。

バラエティー

それが正しいと信じていても、同じ考えの人ばかりだと閉塞感に陥る。
自然の摂理。

エンターテイナーがいないと面白くない。
そんな人たちばかりだと物事は立ち居かないだろうが。

正しいかどうかでは説明できない。
いえるのは、バラエティーさを否定すべきではない。

不自然

人が喜びそうなことを言うのがうまい人。

本流

本流を引っ張る人は、間違いなく傑物に違いない。
ただし、本流を代表する人は、様々なしがらみをまとっているに違いない。
視点を変えれば、談合と癒着において重宝される人物もその中にいる。

ネイチャー

性格上のマイナス点、確かにそれは種の存亡という点において不利なものだ。

例えば、羞恥心自体をなくすことはできない。
それは、ネイチャーだから。

ただ、それを転換することはできる。
考え方や態度、機知によって。

しかし、都度、それが必要になる。
つまり、耐久力が伴わなければ、たやすく引きずられてしまう。

すぐに忘れられなければ、心の傷として刻まれていく。
だから、人は癒しを求める。

誤海

人は誤解という海の中にいる。

自己矛盾

世の理を知ってしまうと、どうにもなっていない現実と直面する。
自己満足を排除して導き出される、満たされない渇きに対峙した結果でもある。

第二の挫折を乗り越えるには、証がどうしても必要だ。
それが挫折の根拠でもある、という矛盾。


成長

拡張世界との遭遇

誰もが経る過程。

拡張世界と出合ったときの感覚は、不安と期待という言葉に代表される。

その中には、ある種の喪失感(これまでの環境が引き継がれない)や無力感(自分が新しい世界に一人で投げだされその世界に対して影響を与えられない)がある。

一方で、そこにある種の開放感や、体の内側に湧き上がってくる、それまで潜在していた力の目覚めというような感覚があるはずだ。

勝つことと成長

犠牲の大きさだけ教訓が得られる。
苦難を伴わず、向上はない。

勝てというけれど、負けた方が成長するともいう。
しかも、誰もが勝ち続けることはできない。
行動すること、挑戦すること自体が生きることだともいう。

実社会における勝利者とは?
負けたと思う者がいるのであれば、勝者はいる。
はたして、実社会でほぼ勝ち続け、高みに登って降りることなく人生を謳歌する人(そのように思われている人)は、いる。

苦難の量が勝ち負けに直結するわけではない。
権力や金力が現実において大きな力を持つことを否定することもできない。
育った環境はその遠因となる。

我々の時代、子供のころの優劣の判断は、勉強かスポーツができるかどうかだった。
なかでも、勉強ができることは優れていることの証だった。

大人になると、決してそうでないことを知る。

コンピテンシーが決め手になるらしい。
巡りあわせもある。
品格であったり、何を為したかにもよる。

人により適性が異なるとしても、言い訳にはしたくない。

結局、勝ち負けではないのかもしれないが、世の中が寛容でない以上、我々は立ち向かわなければならない。

気質(あるいは価値観)

すぐに新しい雰囲気や環境になじめるかどうかは、性格に由来し育った環境により形成される気質によるのだろう。
無垢な子供を見ていてそう思う。

体験が気質を決定する。
気質は振る舞い、態度、信条にも影響する。

過去の体験を変えることはできない。
今さらどうしようもないともいえる。

新たな体験のみ変化を引き起こす効果があるが、そのしきい値は高い。

存在についてもう一度考える

我々を突き動かすエネルギーはなにか?


大事なこと

実社会に出でて幾年月。
淡々とときを刻みつつ、年を重ねてきた。

生きている間、人は歩み続ける。
記憶のかなたにもないような長いときを過ごしながら、精神は一人の宿主のもとでその生涯を閉じる。

普遍的な教えなるものは先人が繰り返し記してきた。

我が身として何が大事であったか。

力(ちから)

最も感嘆するのは、発想する力。
最も讃美できるのは、考える力。
実感を得られるのは、経験力。
励まされるのは、結果力。

努力。
才能のある人が努力すれば最強となる。

道徳

罰せられないように、非難されないように、あるいは、親を悲しませないように。

己の中に善悪の両極の意思がわき起こる。
欲と本心の漠然とした境において、結果として正すことができたのであれば、それは正義といってもいいと思う。

結果

悪意のない一生懸命の結果であれば、結果に対して責めない。

真面目な行為に対して遡って否定しない。
結果が伴わなければ協力すればいい。

常に最善などできない。
決断が優先される場合は多い。

親であればなおさら、それが教育の基本に違いない。

ビジネスでは結果を問われる。
結果へ至るプロセスが大切だといっても、その論理は結果論がベースとなっている。
成果がなければビジネスは成り立たないからだ。

ただ、結果論を日常に適用するのは愚かなことだ。
負けて失うものがあったとしても、得られるものもある。

信じるについて

体調が悪いとき、眠いとき、疲れているとき、人は感情や感覚に支配される。
健全であるときに考えることが、感情に支配されると別の考えに影響される。

正しいと思うことをした結果、非難されたり、否定される。
結果が伴わない。
感情的になられる。
悲しませる。
仲が悪くなる。

それらは自分を苦しめ、意欲を減衰させる。
萎える、くじける、へこむ。

人間は、弱い生き物だ。
でも、時間がたてば、少し強くなって戻ってこられる。

強い人間は、信じる人間だ。
しかし、絶対などない中で何を信じようというのか?

信じないと力を発揮できない。
生存のために何かを信じる。

ただ、頭を使いなさい。
人間は、そういう生き物だ。

共感

共感は閉じられたグループでしか起こらない。
しかも、グループの相手に共感を求める。
踏み絵にさえ使われる。

世の無常。
人は一人では生きていけない。

他人と比べてドライな自分。
世の無常を思えば、群れから距離を保つしかない。
魂が深入りするなとささやく。

一人でできることは限られる。
理想をいうのは無責任だ。
だから信じる、適度に。

だって、自分さえ絶対ではない。
自分は自分であるからいいが。

精神の束縛を解く。
そこに生まれる世界に自分の道を通す。

常識

常識で固められた世界では常識的であることが規範であり、違和感は劣等とみなされる。

違和感が間違っているわけではない。
ただ、そこに内在される危険性が恐れられている。

その世界で基礎が作られるとしても、本当の力が発揮できるのはその世界ではない。
常識の届かない世界に恐れを抱くのは当たり前のことであるが、踏み出さなければ創造はない。

常識を超えたところに、新しい世界がある。

外乱

竜馬だって悔しかったに違いない。
「世の中の人は何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る。」

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

外乱。
言わせておけばいい、の心持ち。

ちょっとした誰かの応援があれば、ものすごく勇気がわく。
それがないと、多分うまくいかない。

宇宙

我々は、今を何とか乗り越えることに躍起となり、目の前ばかりを見てしまう。
時の流れの中にいるため、慣性の中にいるときのように、自分が、周りが動いているということに気付かない。

しかし我々は、空間、そして時の流れという二つの軸の交わりの中にいる。

正直であるということ

本当に正直に生きようとするなら、すぐにその命は失われてしまう。
人間は、人間社会はそれほど不完全で不平等だ。

何に正直であるか。
他人に正直なのか、自分に正直なのか。

現代を生きる我々は実に多くのことを知ってしまった。
人間の不完全さとともに。

知ってしまった自分に(他人にではなく)正直であるということ。
それが一つの解答になる。

一般理論は人間の不完全さを埋めるための一つの試みでもある。

休み明け

楽しかった春休み、夏休み、冬休みが明けて学校が始まった最初の時期、授業を受けながら自分がバカになっているという感覚をよく覚えたものだ。
一度だけではないということは、頭の中で何か変化があったに違いない。

授業で使う脳と遊びで使う脳、日常で必要となる脳。

使っていないと活かされない。
そうかもしれない。

大事なのは、使わないとその本当のパフォーマンスが分からないことだ。
使う機会を授かったのは自分にとって幸運だったということだろう、決していわゆる優秀な生徒ではなかったが。


いろんなこと

精神分裂

インフルエンザにかかったような高熱にうなされ、自力で治そうと病院にもいかずベットで一日ぐったりと横たわっていると、浅い眠りの中、頭の中に何人もの人格が現れてハチャメチャ劇を繰り広げる。

自分であり自分でない人格。
明らかに個性が異なる。

しかも、その人格たちの間で自分が次々と移り変わる。
ときに、自分が首をはねられ殺されたりする。
でも、そこで夢は終わらない。

ハチャメチャでなんでもあり。
多重人格とはこういうことなのかと、何度か同じような経験をするうちに思ったものだ。

夢分析

否が応にも訪れる現実世界の動乱は、精神世界において不安定さを引き起こす。
現実世界でリカバリー出来なければ、人は容易に精神世界に支配される。

一方、現実世界の間違いをリセットするために、精神世界は夢を手段にしながら現実世界に干渉しようとする。
精神世界は感性の世界でもあり、ときに現実の矛盾や歪に対し警告と示唆を与える。

フロイトの夢分析にあるのかどうか知らないが、気分の悪くなる夢を見ると、それを覚えているかどうかにかかわらず、陰鬱な一日を過ごすことになる、それ以上のことが日常で起こらなければ。
夢は不安の増幅器となる。

あるとき、目が覚めると忘れてしまう夢なのに、夢の中では何度も見たことがある夢について、初めて現実と夢とのはざまで一つの結論を導くことができた。

その夢は、続き物の物語のようであり、何度も反芻しながら自分を責めるような、重苦しい夢だった。
夢の中では、自分は罪を犯した存在であり、その罪悪感と後悔にさいなまれている。

導き出した結論は、「これは現実ではなく、倫理問題は存在しない」と、自らに言い聞かせることだった。

確かに、夢物語に至った経緯について自分に落ち度がないとは言えないが、それは誰しも経験する苦い経験といったような種類のものであり、現実において束縛されるべきものではない。
まさに、夢は弱いところに染み込み、認識しないとこころで精神を束縛しようとする。

ただ、夢は、ときどき癒してくれたりもする。

同じ夢

十代のある時期から三十近くまで、同じような夢をよく見た。

チャンバラをしているのに、なぜか自分の刀が自然にぐにゃりと曲がってしまう。
気を取り直してまっすぐにしても、すぐに曲がって役に立たない。

前へ進もうと足を上げるが、その一歩が思うように出ていかない。
力がまるで入らず、何かにエネルギーを吸い取られるような感じ。

じっとしていると問題ない。
いざ足を出すと、あるいは走り出そうとしても、何かに後ろへ引っ張られるように速度は上がらず、みんなからどんどんおいて行かれる。

現実との関係を疑いもしたが、特に確信できるような事実はない。

後になって思い当ったのが、睡眠時無呼吸症候群の疑いだ。
当時は、そんな病気自体、知らなかった。

メガネからの脱却

メガネは体の一部でありながら、ストレスの一部であった。

なぜ目が悪くなったのかはわからないが、小学校3年ぐらいにはどんどん悪くなってきた。

目が良くなるように毎晩トレーニングをしながら祈ったものだが、日ごろ目が悪くならないようにそれほど努めていたわけではないように思う。

メガネという文明の利器には感謝しようがないほどの感謝を覚える。
メガネのない時代に今の視力ならば、まったくの役立たずになってしまったかもしれない。
死活問題だっただろう。

コンタクトが発明されて一般的になってきたのは中学の頃。
自分で責任のとれる年齢になれば、きっと自分もコンタクトをするだろうと漠然と思った。

腕時計さえ身につかなかった自分が、メガネをしなければならない。
メガネは、束縛の象徴でもあった。