HP宣言
そこに、見渡す限りに拓かれた広大な記念公園がある。
その公園の入口には大きな時計塔が建っていて、
淡々と小さく時を刻み続けながら、訪れる人たちの様子を静かに見守っている。
今日も、眼下の明るく手入れされた公園の広場を、修学旅行生だろうかいくつもの学生の集団が横切っていく。
時は流れる。
そこで過去に何があったかは、その記録が教えてくれる。
我々は今に生きる。
今、人々は日常の先端を穏やかに歩んでいる。
時は刻み続ける。
過去は現在に至り、そして未来へとつながっていく。
未来を築くのは、今ここを訪れた人たち。
一人の個人として何ができるかを考えてみる。
誰もが自分の無力さに直面しながらこの小さな世界を生きている。
理想と現実。
想像したことは実際には起こらないという事実。
想像しないことが実際に起こるという現実。
経験を共有しない限り、人と人は分かりあうことなどできないという事実。
自分が思ってほしいように他人は自分のことを思ってくれないという現実。
人がほんのささやかな幸運により生かされているという事実。
人は祈らざるをえないという現実。
そんな中で我々は生きる。
人はいつまでたっても未熟であり、未熟ながらに生きようとし、世の中は未熟だ。
理想はどうであれ、現実として我々が生きて暮らすこの世界は常に戦いを強いられる社会であり、古来より勝者の哲学が我々を支配する。
勝者が強者について語り、強者がその成功を発信する。
この時代に受け入れられた社会システムは、人間本来の業や欲を自由に解き放ち、経済を豊かにし、技術革新により新しい文明を築く一方で、社会に一過性の過熱と流行、そして、多様性や細分化をもたらし、同時に多くの矛盾や歪を浮かび上がらせる。
我々の生活にまといつく歪。
社会が高度化すればするほど、矛盾は分散されていく。
それでも、少し前の経済成長期は明るさがあった。
ものづくりにより経済成長を成し遂げた我々の前の世代は、平和と民主主義を背景に、自由と平等の名のもと富の追及を高らかに宣言した。
が、時代が一つの区切りをつけてほころびが見え始めた今、飽食の時代に生まれ育った恵まれた世代は、惰性の潮流の中、押し流されることに違和感を感じつつも否定する力を持たず、ただその将来を傍観する。
栄枯盛衰。
もはや、見せかけの帳尻合わせでは成り立たない。
バランスは崩れ、向かうべき指標を失い、人々は無頓着になる。
そして、形骸化した組織と過去の遺物を正当化しながら、誇りや恥を伴うことのない奇妙な自信に満ちた、利得に対して自己主張を叫び続ける人間たちが世の中に蔓延してくる。
無頓着であること、あるいは正常化の偏見。
それが、現代を生きるファッションであり標準の術であるとしても、今の生活の姿が、歴史上でみればほんの一瞬の形態であることを理解しなければならない。
今の生活を、望めば望むほどに、違った方向へ行くことを知らなければならない。
思い通りに現実が展開しないのは、人が全知ではないからだ。
人間の行動と自然にいたっては、人は予測すらできないし、制御など到底できない。
人が望むことは大抵、自分に他人以上の幸運が訪れること、だ。
それを否定するのは無意味だ。
その中で、時間の流れの中に立ち真摯に将来に向きあえば、幸せという現象が普通の生活の中にあることを知る。
普通の生活こそ、実は普通ではない。
創造力と強い意志を持ち、なさねば何事もならぬ。
それが当たり前なのでしょうがない、という思い。
同化すれば楽になる。
やがて慣れてしまう。
そこからは何も創造されない。
人の世は繰り返しというけれど、時は繰り返しはしない。
時代はうねる。
変化は新しい勝者を生み出す。
強者の顔ぶれは入れ替わり、強者だった者は敗者となる。
新しい強者は強者でない者達から称えられ、弱い者を助けようとするかもしれない。
だが、戦いにおいて強い者がすべての者を助けられる道理はない。
弱いものが敗者であり、敗者は否定され忘れ去られるのが世の常だ。
グローバル化の中、日本は苦しい立場に立たされている。
日本の勝敗が問われている。
今、現実は理想を見失い、理想は現実を見つけられず、惰性の船団は得体の知れぬ見えざる手に突き動かされながら印なき海原をさまよう。
失われた20年に続くのは、衰退の15年と雌伏の20年なのだろうか。
人は、時代や場所が変われば生き方も変わる。
そのような制約の中で生きている。
普遍的なことが一つある。
それは、生き方や生きる環境が違っても、生きる上で様々な制約があったとしても、人は自分に与えられた、そして自分が獲得した能力を、人それぞれに世の中で表現すべきということであり、そのようにして、人は生きている。
表現する、ゆえに時代は創られる。
みんな時代の先端を生き、時代を創っているということだ。
未熟でも、何かを足がかりに表現しなければならない。
未熟な人間同士が理解できるのは、唯一、表現されたことだけだ。
とにもかくにも、我々は生かされる。
抵抗しようがしまいが。
だから、とりあえずやってみることが大事だ。
既成の価値観をベースにするとしても、そこに満足してしかばねの上に暮らすのか、それとも、将来の礎となるのか。
あふれる情報に溺れず惑わされず、経験と知恵と感性を駆使すれば、常識や慣習とは異なる現実がそこにあることに気付くだろう。
(2011年1月1日)
満員電車の詩
都会には満員電車という摩訶不思議な乗り物がある
いつも人がいっぱいで賑わっている
ぎゅうぎゅう押し合い、みんなぴったりくっつきあっている
でもうれしそうではない
晴れても雨が降っても、みんなやってくる
でも楽しくて乗っているのではないらしい
みんな無表情、だけど行儀がいい
いやいやのっているのでもないらしい
ここは彼らの世界
同じような人たちに囲まれて、安心しているのだろう
我を忘れて心休まる
腸詰めにされた肉の気持ちでしょうか
ぎゅうぎゅう詰めで、今日も運ばれていく
どこへいくのかはその人しか知らない
線路は続くよどこまでも
どんな景色がそこにあるのだろう
(2011年1月1日)
命運
日常を支配する安穏の罠。
将来よりも今が、、、それ自体は悪ではなく、むしろ善。
他人よりも自分が、、、そこへ忍び寄る相対の歪。
勝者の正論はきれいだが、それはある種のエンターテイメントだ。
癒し、慰め、恍惚への誘い、歪曲。
違和感。
本来あるべき形、思考、感情、がそこにない。
自明だと思えることが、そうではない。
世界を知らず、先を見通せない日本。
個人的な利得の追求、アンフェアな振る舞い、将来に対する無責任さ。
日本の国力の相対的衰退。
得ようとして失うもの。
ちょっとした差異が、大きく命運を左右する。
未来は予想できないが、やがてやってくる。
憂うべきは現在よりも未来だ。
未来がなにも語らないことをいいことに、やりたい放題の現在。
高齢世代の驕り、中年世代の遠慮、若年世代の空虚。
人に歴史あり。
ようやく、何とかここまで歩んできた。
では、残りの人生で何を為すのか?
(2011年1月1日)