事例1-福島原発
に見る世の中の反応
そのとき
その1: 入手できる情報がほとんどない
-> 推測、憶測、間違い、意見の主張、ハイテンション
その2: 初動に対する批判
-> ほめられることはない、常にマイナス評価が基準となる、うっぷんばらし、ブーム、エモーショナル
その3: 知らない者同士の茶番
-> 事務方やマスコミ、政治家が主張しあう現場不在の論争、文科系が技術系をコントロールしようとした場合の構図、技術屋=専門バカ、市民の優位性と無知による混乱、この期に及んでの自己満足、責任を持たない情報の流布
気付き1
そもそも原発は安全だといっていた人々は、他人が安全と言っているのを伝え聞いて自らも安全と言っているに過ぎない。
しかも、そんなことは自明のはずだが、みんな何らかの呵責があるのかそのことをあえて取り上げることはない。
自分ではない誰かを批判せずにはいられない衝動と、その奥の、批判されるのが自分でなくて良かったことにホッとしている表情。
想定外の責任はどこにあるのか?
想定外の意味は、津波がいずれ来ることも、津波が起こると今回の問題が発生することも分かっていたが、今起こるとは想定外、ということか。
津波が来ると駄目になることは、技術屋であれば明らか。
他の新しい原発は対策が取られている。
建設当時は文字どおり、想定外だったのかもしれない。
そのような津波は来ないと想定したという意味で。
その後、新事実や研究により当時想定していなかった津波が想定されても、巨大な組織と利権は責任の分散と希薄化という壁に遮られ、その巨大すぎる体躯を速やかに動かすことができるまでのエネルギーには至らなかった。
暗黙の了解のような協調文化。
共同責任とは聞こえがいいが、責任と意識の両方があいまいとなるこのシステムは、その良し悪しが周りから見えない。
日本人的思考が海外から批判されても仕方がない。
大樹の陰に身を寄せ、違和感を押し込めて集団の論理に精神をシンクロさせる。
心の闇は、先の大戦のみならず二度までも大きな間違いを引き起こしたのか。
引き続き起こるのは、過剰反応だ。
屋上屋を重ねるような、本来必要のない場所への投資と、説明責任という名の事務仕事。
結果として引き起こされた混乱は、残念ながら前進と後退の両面を持つ。
気付き2
本来ならば、技術屋はもっと尊重されるべきであるが、彼らは容易に問題の種を作りだす。
問題の種は一人歩きを始め、それを彼ら自身で制止することができない。
そこに利権と政治、偽善とエゴがからみついてくる。
気付き3
外国人の過剰とも思える反応。
立場の違い、情報の違いで理解できる。
彼らは社会的に弱者だから。
ただ、原発事故は我々のビジネスと直接には関係のない話。
生命の危険に関係しているのは確かだが、会社は現在もその時も通常に機能していた。
会社を重視する日本人の思考とは相いれない。
気付き4
想定外の事象に対しては、誰しも対応は鈍くなる。
初動が最も重要なのは前提として自明。
但し、その混乱状態で最善はできても、最高は不可能(最高は所詮、結果論)。
判断するための材料が少なすぎるのと適材な人員の配置ができないから。
優秀な人間が何人いても、その場面に適材な人間とは限らないし、それを期待もできない。
重要な判断に時間をかけるゆとりはない。
適切な判断がなされ実行するための組織がない。
とにかく、何かやらなければならない状況では、結果、対策を進めるために、一人ひとりの判断で臨むことになる。
次々に未知の局面。
ドラマのようにはいかない。
プロジェクトとしての側面もあるが、プロジェクトを成功させるには、要求に対して明確な対策がとれて、それに必要なリソースと時間を確保できることが前提となる。
気付き5
文人が技術を語るとき、そこには大いなる偏見と先入観、誤解を常に伴う。
技術屋は、現状維持が後退であることを知っている。
それが、人間の性であるということも。
ものを創造することで我々は生きてゆける。
社会の進化を促すことができる。
ものを創造しない文人は、技術に対して語るのではなく、その使用方法について語ればよい。
人間が滅びるとすれば、それは技術の発展によるものではなく、その技術を使用する人々の心の暗闇によるものだから。
やがて、技術の進歩により人の心を照らすことができる日が来ると信じる。
歩み
どんよりとした不安な空気がただよい、混沌とした中に不条理が行き交い、重苦しい雰囲気にのまれそうな最近の状態であるが、まずは我々が元気で日本は大丈夫だということを発信することが、安心へとつながるのではないか。
レールの上を景色を眺めながら運ばれてゆくのではなく、自分で道を切り開く。
過去のやり方に戻る必要はない。
そもそもそれはあり得ない。
これからを考えるとき、日本の強みを見極め、世界との共通のベースの上で競合していくことが必要だ。
身内主義は、行き過ぎた過保護につながる。
<2011年4月15日>
内なる組織の歪と渦巻くステークホルダーの影響が、利益の伴わない、危険性を自ら認め発露するような、既定路線を後退させるような投資を判断するに際して、躊躇し、誰も責任を持とうとしない風土、しかも独善的な風土、を作り出したのかもしれない。
先日、専門委員会による原発事故の中間報告が出された。
詳しく読むつもりはないが、日経新聞の記事によれば、副社長レベルにおいて、「防潮堤の建設には数百億円かかり、来る可能性はないと判断して対策を取らなかった」との報告があった。
個人の責任を追及することはレポートの主旨ではないようだが、本来しかるべき対策をとるべきところを放置したマネージメントの責任は非常に重い。
数百億円の防潮堤は、多分、原発を無傷で津波から守ろうとした場合の対策であって、会社の都合を優先した考え方でしかない。
本来とるべきだったのは、津波で被害が発生しても、このような最悪の被害に至らないような対策であったはず。
それは、津波の危険性が報告された時点で十分に実行可能な対策であっただろうし、マネージメントとして判断すべき対策であったはずだ。
日経の記事でも、この点は触れられていない。
<2011年12月28日>