アートコーナー @満員電車の詩
バックグラウンド
個性
みんなクレヨンや色エンピツから入る。
小学生になると水彩画を習う。
楽しい図工の時間。
水彩画は、混ぜると濁る。
書(しょ)、何枚でも書き直しができる。
しかし、何枚書いても満足には書けない。
油彩、重ね描きができる。
暗い色から明るい色へ。
マチエールによる表現。
コンテンポラリーアート、なにそれ。
陶芸、土と火の芸術。
ガラス、熟練と刹那。
風景画、人物画、心象風景。。。。
ポスター、写真、彫刻、インスタレーション、立体、建築、映画、ミュージック、ダンス。。。。
純粋、大衆、工芸、装飾、云々。。。。
身近に触れながら、また、その手にしながら、生の生活の中で誰もがアートと係わりを持つ。
得意、不得意、感性、感受性、造詣、理解、
独創的、すごい、
分かる人、分からない人、
では、サラリーマンのためのアートとは。
絵を描く
昔から有形無形の「なにか」を創るのが好きだった。
それは、あるときは自分自身の影、あるときは光の部分を表現することだった。
が、いずれにしろ、「なにか」を創ることは、ある種必然のことであるのを感じていた。
表現
精密な写実は写真にとって変わられた。
技法を習得すれば、誰彼の作品をコピーするのは難しくない。
画像であれば、なおさら簡単に複製できる。
では、描くという行為にどんな意味があるのかを考えてみる。
「それは、心の中の風景を描写することであり、従って、それは自分にしか出来ないことだ。」
それはまた、心を取り巻く外の世界を描くことでもある。
評価は、明確に独創性に依存する。
創出される美はやがてシンボルとなり、生活に取り込まれてより身近なものとなる。
枯れることを知らず次々に生み出される芸術。
産業や技術の発展と同じように、その時点では考えられないようなことが次の時代に訪れる。
創造という人間の性。
情報通信の発展は領域の拡大と効果をより強め、認知できない速度で世界は拡大する。
販売されるすべての本を読破することなどできないように、今、この瞬間にも新しい美が生まれる。
そして、膨大な軽さの中に、いくつかの本物が浮上する。
昔から人は、自然に対し美を感じる。
昆虫、動物、植物が有する精緻さ、自然の悠久とダイナミズムが生み出す造形。
一方、人は英知により科学的・技術的な美を創造した。
鉄、構造物、乗り物、武器さえも。
もちろん、人は人に美を見出す。
バランス、心地よさ、感動、感情、衝撃、全ての魅力的なもの、
幾何学的な美しさ、デザイン、物語性、象徴、
大きさ、質感、ダイナミズム、
相手がいないと表現が成り立たないように、アーティストは、創り出すという点において作品を通してその向こうに人を見る。
記述
人に歴史あり。
数行の言葉で記述できるものではない。
専門書で記述されたとしても、それでまとめられるものでもない。
しかも、専門書で記述されるのは、ごく一部の人達のみだ。
しかし、まとめなければ伝えられない。
伝えられなければ表現も活かされない。
映画が連続テレビドラマよりも鮮烈なイメージを抱かせるのは、それがコンパクトにまとめられているからだ。
俳句、短歌、詩に然り、そもそも、表現とはそのようなものだ。
そして、突き詰めるだけではダメな、閃くだけでもダメなのがこの世界。
認められなければ、その機会がなければ伝わることもない。
伝えようとする者がいて、欲する者がいる。
それが我々に届くには、どうしても外的な評価が必要だ。
そして、在野にいる目の肥えた無名の人々の評価が、その作品を浮かび上がらせる。
絵画の値段
絵画自体に、売買で取引されるような数億円の価値があるわけではない。
その値段は、それだけの値段で買う人がいる、とういうだけの話だ。
サラリーマン
サラリーマンとは何者か。
Ref. サラリーマン一般理論
このホームページでは全般を通じ、あるいはホームページの背景において、いわばサラリーマンの実存について取り上げているわけだが、サラリーマンの存在を限定しているわけではない。
高度経済成長とともに確立された、非常に高度に整備されたサラリーマン生成プログラムにより生成され続け、日本の社会を底辺から支え続ける人たち。
サラリーマンがそういう人たちを指すとしても、彼らはそれだけの存在ではない。
WWW美術館
開館に当たって
当然、実物を見た方がいい。
しかし、サラリーマンにその余裕、時間、お金、はない。
また、知識もない。
という訳で、まとめました。