旅の記録 - 海外 -


アメリカ

1997年3月-4月 -> アメリカ特別編 参照。

2015年4月、アメリカのシミラリティーもしくは親和性。
もちろん、アメリカが日本に影響を受けているということではなく、日本がアメリカに影響を受けているということ。
日本人が普段の生活の中で経験する「事」や「物」の多くが、何らかのアメリカの影響の元に展開されてきたという事実、あるいは、我々がイメージする最初の外国人がアメリカンという事実を、アメリカに行ったとき、そこで感じる違和感の無さによって逆に気づかされてしまう。
例えば、車での移動や交通インフラ、レストランやファーストフードの食事、彼ら(仕事先の同僚)との会話、彼らの振る舞い、彼らの日常生活や思考回路、街の雰囲気、そういったもろもろは、表示や言葉が英語なのでなんとか通じる安心感といったものとは別に、様々に繰り返されるイメージや情報として我々の頭の中にあらかじめ刻み込まれているからなのだろう、他の外国での経験に比べ、初めて経験することでも大きな驚きを感じることは少ない。
我々は、つい忘れがちになってしまうが、日本が先進国の仲間入りをするずっと前から発展し、世界をリードしていた国だ。
当然、制度が出来上がっていて、行き渡っている。
仕事で初めて突っ込んだ議論をしたが、ビジネス文化の相違による相互理解の難しさについても想定の範囲に収まる、あるいは少なくとも議論が成り立つという見通しを得ることができた。

今回は二回目のアメリカ訪問となる。
実に、18年ぶりのアメリカ。
前回とは立場も違う。
今回は、怯んだら、恥ずかしがったら負け、の意気込み。
あきらめを知り開き直る、堂々と。
英語はハッキリと、口元を開く感じで。
それと、to be wise。

シカゴオヘア空港で早速のトラブル。
最初のESTAによる入国審査に長い行列。
交渉を試みるも受け入れてくれない、結局、二時間半もかかって次の便に間に合わない。
次のフライトに無償で振りかえが利いたが、目的地のRaleighに着いたのは11時半。
前回のアメリカ旅行の時点からは、語学力、スマートフォンなどのツール、旅行のし易さ等々、「何とかなる」程度が向上しているのは間違いないが、入国審査はテロのせいで格段に厳しくなってしまった。

シカゴからRaleighへの移動はやや小型の飛行機。
寒い機内。
うるさい程の機内放送のボリューム設定。
何を言っているのかほとんど聞き取れない耳障りなオネーサンのアナウンス。

仕事で訪れたRaleighの郊外は、広い土地、森と芝生、余裕の区画、そんなアメリカ的な風景の中にあった。
アメリカンサイズの食事、配慮に疑問符の大型バンの内装設備。。。
田舎だからか素直で分かりやすい人たち、アメリカンの開放的な明るさ。。。
車と時間とお金と余裕があれば、アメリカの良さをもっと満喫できるのだが。。。

シカゴで一日だけ有給を取って延泊。
ダウンタウンへは空港からブルーラインを使えば一本で行ける。
なので、面倒だけど今回は、シャトルサービスのある空港近くのホテルを取り、オヘア空港->ホテル->オヘア空港、と移動。

ブルーライン、年期を感じる。
街の落書きはかなり少なくなった?
駅構内には消された後もある。
路線沿いの街並みは煉瓦と錆色の古い質素な建物ばかり。
仕上げは雑。
我々からすると大雑把、適当とも思える。
ダウンタウンの摩天楼のような大型の建造物の壮大さと、仕上げのきめ細やかさは両立しないのだろうか。
ワーカーの質の問題は明らかだが、細部までのこだわりはないのかもしれない。
(ただ、日本車がこの国においても好まれる理由を考えると、やはり仕上がりのよさを欲している人たちはいるはずだ。)
でも、きれいに清掃されている。
木が電柱の素材として使われている。
重たげに変圧器の荷物をぶら下げているような感じ。

地下鉄に揺られていると、映画のワンシーンに飛び込んだかのようだ。
様々な人種、様々なファッション。
きれいな白人女性。
アジアは中国人ばかりか。
黒人率高し。
多少、感傷的になってくる。

ダウンタウンには、面白いデザインのビル、モニュメントがいっぱいある。
個性豊かなビル達は建築の展覧のようだ。
それぞれの意匠に建築家たちの野心と気概を見る。

シカゴ美術館の門前にある二頭の緑のライオンを左手に見て、グラントパークを抜けてミシガン湖へ移動、湖岸を歩く。
エメラルドなミシガン湖。
空の青さ、雲の白さとの対比が鮮やかだ。
まだ湖岸を吹く風は冷たい。

塗装が剥げて錆だらけの手摺り。
開発と修復とのバランスはこの街の課題だろう。
ネイビーピア、この街一番のにぎわいということで来てみたが、子供が来るところだった。
ランチをファーストフードで頼むが、すんなりと通じない。
悔しさをばねに。

ミレニアムパークのザ・ビーンはさすが。
こんなモニュメントがある街はすごい。

ウィルスタワー、
1973年の竣工なので、前回、来ている?
写真を確認要だ。
夜景にはもうそれほどときめかない。
ただ、ここから眺める街の区画の直線性は、ここでしか見られないものかもしれない。

登頂の待ち時間、若い中国人のグループを見かける。
男1人に女3人。
男はぽっちゃり型の大きな体で、やや締まりのない顔をしている。
一方で気配りがきき、頭は良さそうだ。
英語も堪能なようだ。
女たちに頼られ、その対価を堪能しているようにも見える。
共産党幹部のボンボンがアメリカで生活していて、知り合いの中国人女性の旅行の世話をしている、といった風。
楽しそうに、親密に自分たちの世界を作り、中国の裕福な若者のしばしの休息、あるいは解放された時間を過ごしているのだろう。
内一人の女性が、疲れたようにふざけてしゃがみこみ、男がその頬を撫でながら甘く囁く。

驚いたのは、同じような構成の韓国人風の顔立ちのグループを見かけたことだ。
先ほどの中国人グループの女性よりも綺麗な女性も混じっている。
男は中国人ほど大きくはないが、やはり同じような雰囲気を醸し出している。

その他にも、英語を喋る中国人風の若い男女のグループ。
こちらはシンガポールあたりだろうか。
日本人のカップルが一組いたような気がするが、自分を含めてアジア系に日本人は多くない。
むしろ、自分は一人なのでここではかなり浮いた存在だ。
18年前にアメリカへ来たときと比べて趨勢は大きく変わっている。
それは、最近のヨーロッパ旅行でも感じたことだ。
留学の減少だけでなく、海外への旅行者の数も減ってしまったのだろうか。

次の日の朝、始発駅であるオヘア空港からブルーラインに乗ろうとしたが、停車している2台の電車のどちらが先に出発するのか分からない。
それはまだいいとして、真ん中のラインの電車には既に各車両に数人づつの乗客が乗っているが、その様子がおかしい。
みんな一人ずつ別々に座っているのだが、グッタリとしている。
寝ているのか、なぜ?
新しい乗客が普通に乗車するので同じように乗車する。
電車はそのまま発車した。
そこで合点がいった。
このラインは24時間動いている、つまり、彼らはずっとそこにいたんだ。
夜を通し、ダウンタウンと空港の間を電車に運ばれて行き来しながら。
ここは眠らない街シカゴ。

フィールドミュージアムの正面下の階段でシカゴスタイルのホットドッグを食す。
青い空、エメラルドの湖、公園の緑、その向こうにそびえ立つダウンタウンのビル群。
今日はイースターのマラソンイベントのようで、眼下の公園の中を観光客に混じってウサギの耳をつけたスポーツウェアの人が行き交っている。
そんなパノラマを眺めながらホットドッグを頬張る。
グラントパークの土曜日の午前、平和な一日、ちょっとした幸福の時間。
すぐ近くでカモメが一羽、ひとなき叫びをあげてこちらの気を惹こうとする。
食べ物をもらいたそうだ。
でもあげない。

しかし、可愛いかどうかは別にして、若い女性の多くがボディーコンシャスのスパッツやジーンズを履いている。
恥ずかしいとは思わないのだろう。
ランニング中の大きなお尻の人の、肉がだぶついているのは見たくないが。

シカゴ美術館 The Art Institute of Chicago

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シカゴ美術館前の緑のライオン

シカゴ美術館は、メトロポリタン美術館、ボストン美術館と並んでアメリカの三大美術館に数えられるということだが、少なくともメトロポリタンやルーブルと比べるとその規模は小さい。
収蔵品は、古代から現代に至る各地域、時代の様々な種類の美術品や絵画にまたがっているが、中でも印象派の絵画やアメリカの近代絵画が充実している。
入館して階段を上がりまっすぐ進むと、すぐに代表的収蔵品の『パリの通り、雨』、続いて『グランド・ジャット島の日曜日の午後』に出会うことができる。
その辺りの余韻が冷めやらぬうちに、ルノワール、セザンヌ、ロートレック、モネ、ゴッホの名品が次々に現れ、ホドラー、ルドン、と続く。
教科書や美術書でよく見かける絵がそこにある。
エルグレコとレンブラント、更にコンテンポラリーアート。
この辺まで抑えているあたり、美術館としての気概が見える。

カイユボット 『パリの通り、雨』
スーラ 『グランド・ジャット島の日曜日の午後』
ルノワール 優品の数々。但し、『二人の姉妹(テラスにて)』はお目にかかれなかった。
モネ 『睡蓮』。他にも藁干しの連作は見もの。モネの作品だけの部屋がある。
ゴッホ 『自画像』、『寝室』、その他。
ピサロ ピサロの人物画が数点、ルノワールの影響ありか?
シスレーの絵もあり。
ロートレック 『フェルナンド・サーカスにて』、『ムーラン・ルージュにて』、他。
ホドラー、ルドン、
エルグレコ、レンブラント、
ウッド、
とりわけ異彩を放っている。
ジャスパージョーンズ、デ・クーニング、
ジャクソンポロック、ロイ・リヒテンシュタイン
コンテンポラリーアートの代表者たち。












ヨーロッパ

スイス

ヨーロッパの列強に囲まれ、時の権力に翻弄されながらも、結束し、対抗し、協調し、歴史を創ってきた。
国土の大半が山岳地帯なので農地に限りがあり、どうしても外へ出ていかなければならなかった。
特色のあるカントンが連携し、この国を形作り、この国の力を高めてきた。

もともと、反骨精神にあふれた人が多かったのだろう、平地から山地へやってきて住もうというぐらいだ。
偏屈で、一度会って話さないと、ビジネスコミュニケーションがスムーズにいかない人たち。

スイスは、色々と行って、見て、回った。
大きな国ではない。

最初の訪問時は、成り行きでセスナに乗せてもらった。
黒く険しく尖った山が、雪と氷で一段と引き立てられ、薄い空気と濃い青色の空ときらめく太陽が、岩山の輪郭と陰影を演出する。

ピラタス、ギザ、ルッツェルン、ズーリッヒ、ジュネーブ。
ルガーノ、サンガーレン、ツェルマット。
ツェルマットでは初めてスノボーに挑んだが、二日間、考えられるありとあらゆるこけかたでこけて体中あざだらけになった。

インターラーケン、グリンデルワルド。
インターラーケンで自転車をレンタルし、グリンデルワルドまで押して上るようなバカなことをした。

サンモリッツ、ユングフラウヨッホ、ベルン、バーゼル。

ヨーロッパに初めて触れたのはスイスであったし、スイスから自分なりにヨーロッパを体感し、世界について考えさせられた。

*****

話は飛ぶが、2012年9月。
ベルンを一通りおさらいし、待望のパウルクレーセンター Zentrum Paul Klee へ行ってきた。
建築設計はレンゾ・ピアノ。

前日と当日の宿泊は HOTEL KREUZ BERN。

夜の8時過ぎに到着したBERN駅でまず迷った。
駅のレイアウトが全く記憶と一致しない。
過去に何度か来ているので着いたら思い出すかと思ったが、多分この駅はあまり記憶に残っていない。

位置関係で何とかホテルへたどり着けると思っていたが、その位置関係が全く不明だった。
余裕があったので何とか自力で探し当てたが。

翌日のベルンは雨だった。
ベルンにはどんよりとした少し重たいイメージを持ってしまうが、それは曇天のためだけではなく中世建築の町並みからくる歴史の重みがそうさせているのだろう。

蛇行した部分の護岸が削り取られそうな水量で、黄土色のアーレ川は勢いよく流れていた。
眼下はるか下に川があるような高台に街の主要部は配置されているが、かってダムがなかった時代はどこまで水かさが増したのだろうか。

改めてみるとベルンの形がよく見えてくる。
その歴史の堆積と過去から現在にいたる荘厳な重厚さとともに。

よくこれほどのものを作ったな、作れたな。
戦略的な意味合いでそうなったのかもしれないが、街の作りに人を引き付けるセンスが感じられる。
もともとは小高い丘と森だったのに。

パウルクレー。
彼は落書きに法則を求め、そしてついに発見した。
抽象へ昇華させ、幾何学とは一線を隔した。

字とスケッチはへた。
生まれついての技量をもつ高度な別の次元の人というわけではない。
その時代をそこで生きた一人のクリエーター、そしてマイスター。

ぐるぐる上ったら同じ道をぐるぐる下りなければならない。
上ったところに上るだけの何かがあるのか、これを作った人よ。

上には何もなかった。
でも景色があった。

ハウルクレーセンターへはベルン駅から12のトラムで終点まで行く。
途中、右手にベルンの壮観なパノラマが開ける。


久しぶりのスイスであったが、技術の進歩と相まって自動車の規制が厳しくなったようだ。
このあたりの進展がスイスらしい。

メンタリティなのかスイスという国のシステムや伝統がそうさせるのか。
スイスが長い歴史にわたり独自性を発揮できるのは、このように本質(この場合、車が凶器だということ)に基づいて技術展開ができるからに違いない。

ドイツ

ドイツはまだ本格的に行ったことはない。
ニュルンベルクで開かれた展示会に顔を出した程度だ。
スイスジャーマンではなく、ハイジャーマンをしゃべる人たち。

地元のバスに乗った際には、巨人のすみかに小さな日本人たちが間違って入り込んだ感じであった。
しばらく黙りこむ巨人たち、でも、その後は別に関心を示す風でもなく何事もなかったかのように大きな声で騒々しくしゃべりだした。
あのドイツ語のアクセントで。

街で感じたのは、洗練されて、親切なドイツ人。
仕事で接するドイツ人は、必ずしもみんな洗練されているわけではないが。

スペイン

20xx年、マドリード、コルドバ、セビーリャ。
青い空とまぶしい太陽。
闘牛、フラメンコ。。。

ラテンの明るいリズムと軽快さ、濃い色をした情熱。
無敵艦隊と大航海。

スペインは、バルセロナエリアとマドリードエリア、そして南部とで文化が異なるらしい。
バルセロナには行っていないが、また違った魅力があるに違いない。
サクラダファミリアはいつか見てみたい。

マドリードの、路肩にバンパーをぶつけあいながら停車している自動車。
南部の、イスラムの影響を受けた建築、巨大な大聖堂。
パティオ、中庭。
フラメンコの、文化と伝統と生活と人と技術と感性が高い次元で融合し凝縮した踊り。
おいしいパエリア。
闘牛の、一瞬の静止と生死。

ゲルニカの静かで胸を締め付けるたたずまい。
ピカソはこの絵を想像で描いたらしい。
現実を目の当たりにすると想像に制限がかかるから。

プラド美術館はさすがであった。
ベラスケス、ゴヤ、エル・グレコ。。。

*****

2014年3月末、マドリード、サンタンダール。
仕事のみ、工場、港湾設備の見学。

飛行機の移動という非現実的な空間と時間を後にして最初に足をつける場所はいつでもどこでも空港なわけだが、前回も利用したはずのマドリッド空港の記憶は全く残っていなかった。
しかし、天井の波打つデザインと空間の広がり、奥行きの深さは、心地よい開放感とともに、感嘆、さすがといった感激を呼び起こす。
それは、マドリッドの市内に広がる重厚な建築群から受ける印象と同じように、歴史に根差した壮大な成果の表現といったような、スペインという国の奥行きの深さと大きさを感じさせるものだ。

ただ、この国は、多分過去においてもそうであったように、北欧の合理性とは少し異なった、ラテン系のバランスとアンバランスの上に成り立っている。
現在の問題は、若者の80%が失業しているという高い失業率にみられる経済的な困難への直面状況であるが、マドリッドの街の中や見学した工場の中ではそのような雰囲気は全く感じられなかった。
若者の自転車によるデモ(新しい制度に対するパフォーマンスということだったらしい)に偶然遭遇したが、それを見守るポリスの様子は静観であり、交通渋滞も幾分整然としており、暴力に発展しような様子は全く見られなかった。

現地の案内でおいしいスペイン料理をいただく。
昼はパルマ、プルポ(タコの料理)、魚料理、夕食はラム肉料理。
スペインへ来たことの歓喜とスペインの雰囲気に心地よく浸る。
今回はスイスからの移動であったが、塩っ辛いスイス料理と違い、やはりテイストの主張がうれしい。

サンタンダール行きのフライトの搭乗口は、マドリッド空港の長大なターミナルの端っこに位置していた。
マドリッドから飛行機が飛んでるといっても、この時期、サンタンダールを訪れる外国人は多くなさそうで、待っている人の中にアジア系や黒人を全く見かけなかった。

訪問した港湾の荷揚げ会社は、多分、それが中小の典型的な企業の姿だと思われる家族経営の、家族的で情熱的な、特にスペインの熱い魂と陽光を思わせる明るい雰囲気が直感で迫ってくる、暖かさと配慮に満ち溢れた、それでいて競争社会に生きる学問的かつ実務的な合理的を抱かせる、そんな人たちが営んでいる会社だった。
村落と都市との対比、田舎町の素敵なレストラン、タパスとカニの雑炊料理。

その日は、仕事が終わってからパエリヤを食べた。
やはり、家庭的な店であり、家庭的な味わいがうれしい。

ところで、シエスタの風習はまだあるそうだが、近代化された工場などではその非効率性から許容できるものではない。
これがまさに時代の流れというものか。
ただ、時間にとらわれない限り昼食や夕食の開始は遅い。

*****

2015年4月24、一日のみのバルセロナ(スイス出張のボーナスフライトによる渡航)。
目的はもちろん、サクラダファミリア大聖堂。

チューリッヒからバルセロナへの飛行機の中、後ろの席でずっとしゃべり続ける女3人組。
スイス人かスペイン人か?多分スペイン人だろう。
空港からサンツへ向かう国鉄 renfe の車中、ものすごい早口と勢いで電話をかけまくるスペイン人、ラテンのエネルギー。
ところでスペイン語なのかエスパニョールなのか。

サンツで乗り換え、地下鉄でサクラダファミリアへ向かう。
電車を降り、地上に出て振り返ると、そこに大聖堂。
念願かない、ついに出会う。
一生の内に訪れたいと思っていた場所の一つ。
その存在が自分の中に刻まれたのは、四半世紀ぐらい前かもしれない。

異次元の出来事のようなこの異様は、なぜ現実世界へ現われてしまったのか。
改めて想像力が膨らむ。
建設工事は終わりそうになく、同時に修復工事が行われているような有り様。
増築あるいは新築された部分は、それぞれの段階ごとにはっきりと色で見分けがついてしまう。
最も初期の部分が創造物の持つ有機性を特に強く抱かせるのに対し、それ以降の箇所は無機的な直線性が整っている。
明らかに、この異形の建築を実現するにあたって、建造初期には大きすぎる技術上のチャレンジが試みられたのだろう。

ただ、有機的なものは滅びゆく性を象徴する。
教会建築であれば、その役割から重厚で永年にわたり存続する象徴でなければならないのではないか。

この大聖堂の象徴とも言える4本の柱の向こうに更に太くて高い塔が予定されていた(る)らしい。
あるいはそれが出来上がったとすると、この建物が持つ存在感は、今を目の前にするこの現実においてさえ想像することはできない。
本当に完成するのか。
ガウディが込めた思いはなんであったにせよ、死してなおその作品は引き継がれ、世界へ与えたインパクトは生半可なものではない。
未完の巨大観光地、と言ってしまっては本質を外すのかもしれないが、それは平和の象徴でもある。

この短い滞在でカタルーニャのアイデンティティーを知るには到底至らないが、ピカソ、ミロ、ガウディという存在とその作品を産んだ風土は、この街が持つ特殊性を物語っている。
少しけたたましく、密度が高く、格差があり、スマートではないが情熱的、そして高い魂のエネルギー。

この街のシンボル、サクラダファミリア大聖堂とガウディ。
そして、多分、この街で忘れてはならないもう一つの存在は、FCBのメッシ。

イタリア

200x年、ヴェネチア。
マルコポーロ空港から水上バスでラグーンを進んでいくと、水平線の向こうに、古来よりここを訪れる人はみんな同じように感動するに違いない、水上都市ヴェネチアの中世と変わらぬ街並みが見えてくる。
水上バスの低い座席から見ると、そこだけ時間がとまっていたのかと思えるようなヴェネチアの街は、まるで海面に浮かんでいるかのように幻想的だった。
それはこれまで全く見たことがなかった都市であり、全く予想していなかった景観でもあった。

商業とガラスで栄えた、かつての大都市、ベネチア。
細く迷路のような通り、名所、ムラノ島、お墓の島、水につかり始めた広場、棟からの眺め。
おいしいカルボナーラ。
何より、街全体がすばらしい。

ヴェネチアの名前は小学校の時から知っている。
学校を巡回する一座の講演を、小学校の講堂で見た。
ベニスの商人、シェークスピア。

遠い日のある種のあこがれは、もはや記憶の中の偶像でしかなかったが、実際に見て感じたヴェネチアは、まさに感動そのものであった。

イギリス

200x年、ロンドン。
ロンドンでは、とにかく歩いた。
基本的に旅先では、距離感が初めてなので分からないためと、バスなどの公共機関に不慣れなため、歩くことが多くなる。
歩くことで、街を見て、感じ、イメージができあがる。
ただ、ロンドンは広かった。
海外の都市は概して小さいが、ロンドンは大きい。
三日間でも、限られた場所以外は、行ってみることすらできなかった。

ロンドンは歴史と発展が入り混じった街であり、その評判のとおり見所が多い。
もちろん、大英博物館とナショナル・ギャラリーは、今回の目的の中心であった。、
入館が無料なのはうれしい。
ミュージカルにも行った。

とにかく、色々見て回ったが、表面をざっと見ただけの感があり、もう少しじっくりと堪能したい街だ。

フランス

2013年、6月末-7月初、パリ。
チューリッヒからのフライトは、シャルルドゴール空港のターミナル1(小さい方)へ到着。
空港の有機的デザイン、少ない英語の案内、線路沿いの落書き。

パリ北駅、ガール・デュ・ノールへ移動。
雑然。
黒人、インド人、中国人。
今始まったのではない、それはここに在る現実。

迷路のようなアクセス路、劣化、渋滞、クラクション、自律調整されたような交通ルール。
たむろする若者、格差と閉塞感。

搾取と移民、栄光と影、自由と混沌、その連鎖。
民族の交流から成り立つ社会。
そのダイナミズムはいまだ途上。
(対極的にある日本の均質性)

権力と正統性、支配と社会的妥当性、多様性と封建制度、が歴史や街を形どる。

他人に構っていられないし、関心もない。
普遍的な共感はその現実から得られるのみ。

明日は我が身、あるいは回り巡って自分に戻ってくる、という考え方をとらない。
より現実的な思考。
どうにかなる、が最初から常用される状態。

自主性と独自性のコニュニティは自らを閉じ、他から学ぼうとしなくなる。
ただ、世界の大きさに相対し閉塞する。

連綿と続く歴史の巡り合わせ。
それでも、逃れられない運命に直面し、受け入れ、活動し続ける。
それがパリにある。

日本のように同一の共感を共有する国は、その規模において他にない。
それが、相対的に見たときの日本の最大の特徴と強さといえる。

非常時(?)の案内などない。
求めない、発想もない。
そんなことを考え出すと更に混乱を招く。

日本人にフランス語で道を訪ねる!?
この人達は昔からそうなんだろう。

制御できない複雑系、そしてリバティ。
人の目を気にすることのない自由さ。
開放と表現、創造。
フランスは、寛容な国でもある。

この時期は一年でもっとも夜が長い。
公園の芝生や河畔でじゃれあう、語らう、本を読む、あるいは時を過ごす、という時間の過ごし方。
季節的な開放感もあるのだろう。

素敵なパリジャンヌ。
韓国と中国の若者のグループやカップル、家族、もちろん団体も、が目につく。
日本人と言えば熟年の団体。

日本人のツアーに遭遇すると、これじゃーいかん、という気持ちになる。
そこには、アジアの先進国というよりも、今や進歩のないアジアの国の一つといった感がある。

右側通行。
バリアフリーではない、階段のステップは狭い。
主張しないと相手に伝わらないという背景で話をする。

韓国とは異なる駐車場事情。
前後10cmは許容らしい。

***

ガール・デュ・ノールからホテルへの移動で問題発生。
地上に出たものの、位置も分からずホテルの場所もわからない。(地図を印刷してこなかった)
何とかなると思ったが、何ともならない。
(ホテルの名前はノール(北)だが、実際はガール・ド・レスト(東)駅が最寄駅だった)

渋滞で人がごった返している。
タクシーも来ない。
とりあえず大雑把な地図と方向を頼りに南下し、駅のバス停へたどり着いた。
途中、インド人ばかりのインド人タウンを通過。
インフォセンターで聞いて、バス39ラインで移動、ようやく何とかなった。

ジャックの助けもあり、初めてのフランスの最初の夜はフランスらしさを体験できた。
北地区の雑踏と混乱に影響を与えるカラーピープルと治安についてのインプット。
テルトル広場からサクレ・クール寺院を散策。
ここはモンマルトル、しかし、モンマルトルというカタカナ発音は全く正しくない。

ビストロと楽しい会話。
夏の夜は長くて遅い。

夜のパリ周遊ドライブ。
ラ・トゥール・エッフェルの台脚の鉄骨フレームがライトアップされ繊細かつ巨大に照らされる。
眠い目に飛び込んできたその光景はこれまでに見たこともないような美しい機能美だった。

二日目の土曜日は朝から早起きする予定だったが、少し出遅れる。
ルーブルは既に行列だったので、オルセーへ目的地を変更。
セーヌ川とシテ島、橋を見物しながら歩く。

壮麗さと強大さを誇る王朝の建築群。
アンシャンレジームにおいて歴史上に一つの頂点(文字通り頂点)を築いた。

オルセーから出たときは18時近くで日本では夕方の時間の感覚だが、パリの夏の夜は長い。
セーヌ川沿いには時間を過ごす多くのカップルやグループ。
明るい日差しの中、その一角で気分を味わいながら買ってきたファーストフードを食べる。

その後、凱旋門を見学し、エッフェル塔へ移動、シャイヨー宮からの眺めは格別。
東京タワーの比ではない。

セーヌ川を渡ってエッフェル塔の反対まで移動したものの、塔には行列ができていて上るのはきっぱりとあきらめた。
陸軍士官学校まで続く公園の芝生には数多くのグループやカップルが寝そべっている。
ライトアップまでいるのだろうが、パリスタイルの余暇の過ごし方の一つがここにもある。

三日目の日曜日、今度こそ朝一でルーブルへ。
込んでなくそのままピラミッドへ入る。
美術品もさることながら、やはりルーブル宮の存在感には圧倒される。
この事業を進めた財力や技術力に感嘆するばかりだが、当時、パリは確かに世界の中心だったのだろう。

ルーブルの後、コンコルド広場からオペラ・ガルニエまで散策。
続いて、市庁舎、ノートルダム大聖堂あたりを散策。
ノートルダム大聖堂では日曜のミサが行われていて、説教とパイプオルガンを見学。

その後、アンヴァリッドを遠くに眺め、1900年の万博会場グラン・パレあたりを歩き、エッフェル塔の夜景を撮るために再びシャイヨー宮へ移動。
引き続きノートルダムへ戻ってライトアップを撮影。
既に時間は24時を回っている。
何とか終電前にホテルへ到着。

四日目は、ポンピドゥーセンターから開始。
鑑賞後、ラ・デファンスを見学し、初日に散策したモンマルトルへ移動、ユトリロの歩いた街を追体験。

夕方は、凱旋門やシャンデリデ通りの喧騒を味わい、ピガールへ。
そこもパリの一つの魅力。
ムーラン・ルージュの夜の雰囲気は、入らなくてもその熱気が伝わってくる。

ところで、お土産に傷がないかどうか買う時にチェックしたほうがいい。

***

フランスを語るには美術は外せない。

オルセー美術館

駅舎を改造したという美術館は、セーヌ川に面して大きな二つの時計が配置された印象的な外観を備えている。
湧き起こる期待感、ついにここまで来た。
その中にどのような空間が広がり、そこにどんな出会いがあるのだろう。

受付を通り抜けて、まず、目の前に広がる明るく開放的で大きな空間とそのレイアウトに、フランスの歴史的集積とデザインの融合のようなものを肌で感じる。
美術館以上の、超越的とも言ったような精神の豊かさがそこにある。

スーラは1891年、32歳のとき、サーカスを描いた歳に亡くなった。
弟分(?)のシニャックとともに(?)点描画を確立し、その技法において名実ともに第一人者となった。

ゴッホの1887と1889年の自画像、オーベール・シュル・オワーズの歪んだ絵。
薄い緑、濃い青。
北斗七星の星夜。
残念ながら、アルルの寝室はなかった。

アングルの優美。
モローのロマン。
モーリスドニの知的さ。
税官吏ルソー。
ロートレックの大きな絵、ムーラン・ルージュ。

落ち穂拾い、晩鐘、羊飼いの少女、、、
ミレー、ここにあり!

セザンヌの模索する前期。

モネはシスレーやピサロと比べて絵がうまいとは思わないが、発想の斬新さと構図が際立っている。

ドガはそこそこ絵がうまいが、うまい絵を描こうとすると、何処かズレてしまう。
彫刻と合わせ、その題材や表現力が魅力なのだろう。

マネの草上の昼食はあったが、オランピアが見当たらない、笛を吹く少年もない。
多分貸し出しか。

ルノワールは1875年の絵にその独創が発現されている。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会。
(後日その場所へ行ったが、どこにそんなスペースが?)
1880年代の悩める時代を経て、1890以降見事に復活する。

数々の彫刻、ロダン、プールデル、マイヨール。。。
日本の国立西洋美術館で見たことのある作品も多いが。

オペラ・ガルニエとパリの街の模型、実際に使用されていた彫像の展示。

セーヌ川沿いの大きな時計、その内側はカフェになっていて、時計の隙間からサクレ・クールを見ることができる。

充実の印象派、滞在約6時間。

ルーブル

おさらいや勉強を兼ね、事前にルートや注目作品のチェックをしておいたほうがいい。
よくいわれる話だが、特にルーブル(メトロポリタンと同じように)は巨大で収蔵品の幅が広いので、予備知識がないときつい。

解説は基本、フランス語しかついていない。
そこにおかれているのが、歴史的に貴重な第一級の作品なのだろうが、それがわからない。
絵画は製作年が入っていない。

ただ、案内パンフやパリガイドブックに取り上げられている作品を押さえるだけでも価値はある。
それは、本当に重要で有名な作品だから。
フェルメールの「レースを編む女」に注目しつつ隣のもう一つの作品に気付かないといったこともあり得るが。

もちろん、鑑賞するにあたって感じるままに、などと言うつもりはない。
現実的に時間が限られる。

いい絵を鑑賞するというのは、感嘆したり共鳴したりする他、歴史を感じ、思い巡らせ、考え、発見し、確認し、深さを知り、身を引き締めることであり、また、未来へ臨むことでもある。

ハンムラビ法典、ミロのビーナス、モナリザ、サモトラケのニケ。
学校で習って以来、頭の中に存在し続けていた作品と、ついに対面。

ニケ像。
想像するためか、その存在は力強い。
大きくたくましい。
実物でないとわからない。

ミケランジェロの彫像。
ホモセクシュアルの感性。

写真を撮っていいというのは大きな特徴だと思う。
絵の写真をいくらとっても、美術書の写真にかなうはずはないのだが、何を見たかを後で確認できる。
大量に絵を見ると、後で混乱するのがいつもの顛末だから。

クールベ、エルグレコ、、、
テオドールジュリコー、ダヴィット、、、

フラゴナール、ドラクロワ、アングル、コロー、
フェルメール、ルーベンス、ファンダイク、ゴヤ、そしてレンブラント。

ところで、モナリザ以外にもレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は数点あった。

フランスの栄華、ルーブル宮。
滞在約8時間。

ポンピドーセンター(国立近代美術館)

下手に描くのがファッションのような1910年前後の迷える模索の時代を経て、絵画は新たな表現を繰り広げながら洗練されていった。
が、マチスは最初からずっと下手だった。
ネジの抜けた才能。
それがシンプルで力強い作品に結実する。

ルオーは上手ではないが、わかりやすい。
ミロはずっとあの調子だった。

シャガールの幻想。
レジェの建設性。
ピカソは何枚描いたのか。
カンディンスキーの良好な展開。
フランシスベーコン、こんなになっちゃった。

コンテンポラリーアートは、続けるのが大変だ。
人と異なる感性と独特の才能、そして発信力。

ジョスパージョーンズ、ジャクソンポロック、イブクライン、リヒテンシュタイン、おなじみのアンディーウォーホル

アルプ、プランクーシ。

作家ごとの作品数は限られるが、ポップアートを概観できる。
なお、この建物の設計にはレンゾ・ピアノが関わっている。
滞在約4時間。


アジア

オーストラリア

ケアンズ、1997年2月。
初めて行った海外。
アメリカ長期周遊の準備の位置づけだった。

明るい日差しと色合い。
グレートバリアリーフ、オージーの料理、お店、海外ゴルフ。
海外での習慣やシステムの違い。

すべての海外旅行の原点。

ベトナム

ホーチミン、20xx年12月。
期せずして行くことになった初めてのベトナム。
アジアという意味では、初めて訪れたのがベトナムであった。
ベトナム戦争とドイモイ。
このとき、ベトナムはBRICSに続く新しい新興勢力として注目の的であった。

インフラ整備の遅れている発展途上国は携帯の普及が進んでいると聞いていたが、自分のSIMカードをレンタルのボディーへ差し込めば使えるタイプの携帯が当たり前に使用されていた。
日本の携帯では対応ができない。日本の方が遅れている。。。

東南系の顔、中国系の顔、日本人と同じような顔、ここはベトナム。

すでに始まった格差、換金すると札束になってしまう紙幣、大量のバイクと複数乗り、若い国民、客引き、1/3から1/4の物価、おいしい料理。
小麦麺よりもライス麺、フォー。
ちなみに、日本では割れた米が販売されるケースはほとんどないが、こちらでは破砕した米粒が普通に入っている。

元サイゴン、今の名前はホーチミン。多数の労働者が地方から押し寄せ、旧正月の季節には、限られた交通網は帰省する人であふれる。

ベトナムの人は勤勉とよく言われる。多分そうなのだろう、そのような印象は受けた。
仕事や移動の際に何人かのベトナム人と会ったが、みんな若かった。
政治や経済、教育の進展や浸透は、今後も安定的に継続されることが予想され、生活水準や国際的な競争力は、とうからず一段高いレベルへ向上することが想像される。

若い人と接する中で、唯一会った老齢の担当者。
実務担当というわけではなかったが、穏やかな物腰や口調とは別に、その風貌にはベトナムの困難な歴史が刻まれているような迫力があった。
多分、歴戦の戦士なのではないだろうか。

このような国民をみていると、日本の労働者と何が違って、将来的にどうなっていくのかということをどうしても考えてしまう。
日本の強みとは何か、それを、今後も維持していくことができるのか?
日本人は勤勉であり、よく働く。
しかし、新興国が政治の安定を背景に教育や技術レベルを上げてくれば、安い労働単価と経済原理により、どうしても日本の国際的な競争力と位置づけは低下する。
それは、韓国や中国、タイ等と日本の関係において既に起こったことであり、既知の事実だ。
彼らには、過去の困難を礎に、生活を良くしていこうという強い意志や夢がある。

日本で、競争力のあるサービスや製品以外を保護することに腐心するような政策が続けられるのならば、困難の先送りにしかならない。
保護主義が継続され、過去の遺産や価値観に縛られたままであれば、やがて後悔とともに次の時代を迎えることになるだろう。

高齢化社会の日本に、過去のような成長力はない。
日本の相対的な地位が復活するようなことを多くの人は期待しているのないかもしれないが、行動を伴わなければ単なる無責任としかいえない。
よく働く日本人という定説も、目指すべき目標もなく既に飽食の時代にどっぷりとつかった今の世代を見れば、それが過去になりつつあるという危惧を抱いてしまう。

アジアであるのだから、日本の影響を多少なり受けていて、日本製品の知名度がかなり高いものと思っていたが、そんなことは全くなかった。
彼らにとっては、日本は、いくつかの企業が進出してはいるが、アジアの遠い国の一つなのだ。
彼らが最も影響を受けいているは、アメリカのようだった。中国の影響もそれほど見られなかった。
世界と仕事をすることが国力の向上になるということから、英語教育への取り組みは日本よりも真剣なようで、今後の発展の助けとなるだろう。

金曜日の夕方のラッシュ。
赤信号になれば交差点に集合するかのようにあふれるバイク、バイク、バイク。
信号が変わると、混じった車とともに大集団は穏やかに先頭から分離しだし、マラソンのスタートのような様相を見せる。
基本的にバイクは複数乗りだが、多くは若いカップルだ。
今、ホーチミンでトレンディーな週末のドライブデートといったところか。

市場(モール)へ買い物に行く。
所狭しと軒を並べる日用品や衣類のお店とお土産屋。
素朴な民芸品の数々。

貧しさに伴う問題や困難を社会に抱えながらも、川沿いの通りを行き交うカップルは、若く、希望にあふれているようであった。

中国

上海、聊城、無錫、2009年
HONGQIAO空港へ進路を向ける飛行機の窓からみた上海は、スモッグ(?)に覆われた大都会であった。

中国人というと、背が高くてスタイルのいい、多分、北京系だと思うが、そういったイメージがあったが、少なくとも見かけた人たちは、我々日本人とさほど変わらぬ体系の人が大半のようだった。

最初の聊城市への工場訪問では、HONGQIAO空港から山東空港へ飛行機で移動し、そこから車で延々と三時間程度移動した。
その道中、多分高速道路、の両側はほぼ荒野が広がる。近代的な建造物は、道しかない。
それでも、道路の周りは、植林などで計画的に整備されている風ではあった。
広大な大地。
いくら人口が多くても、この国土の広さを考えてみれば、内陸の街と街の間にこのような大地が広がるのは、不思議ではないのかもしれない。
ところどころに家屋が点在しているが、それらは決して立派というような感じではなかった。

この地を、かつて小国が覇権を争った時代、人々は馬や徒歩で駆け巡り、歴史を作ってきたのだろう。
中国4000年の歴史。

聊城市はかなり大きな街で、メインストリートには近代的なビルディングが立ち並び、いくつもの建築中のビルディング、周辺が整備された人工湖、一方で古寺など、中国の豊かな発展を展望することができる街だった。
人工湖を訪れる人々の様子は、穏やかであり楽しげであり、生活のゆとりを感じさせる。
一方で、旧市街の雑踏や所狭しと並ぶあばら家からは、いまだ貧しい人が大多数いることがうかがえる。

ホテルの高いフロアから広がる光景。
大通りに沿って立ち並ぶ近代的なビルディングに隠れているが、すぐ裏側、ちょっと入った場所には、旧態依然の、時代が数十年止まっていたかのような空間が広がる。
ブロック塀で囲まれたその内側は、家畜との共同住居のようだった。
いずれ、そこも新しいビルに置き換わってゆくのだろうが、新旧が同時にある様は、この街、あるいは中国の急激な発展を物語っている。

レストランでは深みと厚み、豊かさを感じさせる、まさに本場の中華料理をいただいた。
日本の中華とあまり変わらずそんなに辛くなかったので、とてもおいしくいただいた。
机をトントン、カンペイ。
お客さんと一緒だったとはいえ、中国人の歓待はとても丁寧でさわやかであり、欧米人には感じない親近感を抱く。

彼らからは、政治やイデオロギーについて全くと言っていいほど感じ取ることはなかった。
彼らも、高給取りで特権を持ち、偉そうにしている官僚が好きではないようだった。

一方で、中央政治による集中的、絶対的な管理体制は、この国を安定させるために必要なのだろう。
中国人は、広く、様々であり、個人レベルではかなり意欲的で、管理がなければ、すぐにバラけてしまうような印象を持った。
中央政権に対する反動があるのかもしれないが。
大きな国であればある程、中央で方向性を決定して指導していかないとまとまりがつかなくなるというのは、分かる気がする。
テレビでは、明らかに日本人を悪視したドラマが、普通に流れていた。

上海、揚子江周辺に広がる豊かな大地。

中国の近代化と沿岸部の目覚ましい発展は話に聞いていたが、上海はまさに世界的大都市であった。
拡張から拡張へと、継ぎはぎの感があるが。
渋滞がひどい。
道路は車であふれ、クラクションの音がけたたましい。
ところで、運転中、周りに車が接近すると容易にクラクションを鳴らすのは、彼らの運転習慣らしい。

やはり、スモッグが気になる。
夜空の星は、ほとんど見る機会はないということだ。

無錫(ウーシー)は、上海から車で2~3時間ぐらいで移動できる。
多くの日本企業が進出していて、日本人向けの、日本的な繁華街があったりするらしい。

仕事の合間に太湖を観光する機会があった。
呉越同舟が、この湖を舞台にしていたということを知る。
教科書で聞き覚えた歴史が、いま初めて現実味を帯びる。

韓国

木浦(モッポ)、ソウル、2010年8月
漢字を使用する国(と地域)は、中国、日本、台湾、そして韓国の4カ国(地域)だったと思うが、韓国では、漢字はほとんど使われなくなってきているようだ。
韓国のホテルなどで配られている地図には、都市名に漢字は一切使われていない。
(中国も簡易体へ移行しているので、旧来の漢字を最も使用しているのが日本人ということか!?)
漢字は、中国と韓国、日本それぞれで発音が異なる。
韓国や日本では、発音が先にあり後から漢字を当てはめたということなのだろうが。
母音の数が多く、発音は難しい。
語順は日本語と同じだそうだが、発音は多様だ。

ハングルでは、一つの漢字に一つのハングル文字の組み合わせがあてられる。
偉大なハングルは、かつて訓民正音と呼ばれた。
困るのは、移動やレストランでの注文時、漢字であればなんとなくわかるものが、ハングルでは全く分からないということだ。

喧嘩しているような話し方。
細長いマンションの林立。
臨時の滑走路になる4車線の高速道路
車の多さと路肩への駐車。

北の問題を抱え、中国、ロシア、日本の強国に囲まれるという状況から、政治的には慎重にならざるを得ないという立場に立たされている。
自動車の数の多さと駐車場問題からは、現代自動車という民間資本と政治とのかかわりが想像される。

韓国の人は文化的でマインドが素晴らしい。
儒教の影響もあるのだろう。
一方で、儒教は改革を罪とするらしい。
儒教精神の束縛からの解放が、韓国の成長につながる。
(北があそこまで体制を維持できるのは、また、変わろうとしないのは、儒教の影響があるのか!?)

韓国と日本の相互理解と尊重の深まりや、刺激しあいながらの発展は、今後予測される交流の増加と合間って益々相互の利益となるに違いない。

韓国では、国策として日本文化の影響を避ける方策がとられてきた、ということを聞いたことがある。
日本で生活したことがある日本語通訳の人に、日本の文化についてちょっと聞いてみたところ、普通に入手できるということだった。
規制が過去のものだったのか、それとも国民が気づかないような規制であるのかは定かではないが、現代ではインターネットを利用すれば確かに何でも入手が可能だろう。

日本文化は別にして、工業製品についていえば、ほとんど国産のようであった。
ウォシュレットまで。
日本製品は、車を含め、隣の国とは思えないぐらい見かけない。
それでいて、日本と同じような工業製品を見かける。

韓国から日本への製品の輸入について話をしているときに初めて知ったが、日本は工業製品の輸入については開かれた国だ。
関税がゼロということをこれまで特に意識してこなかったが、韓国では、依然、輸入関税があることが当たり前のようであった。

ところで、ソウルで宿泊したロッテホテルは、自分がこれまで泊った中で最もいいホテルといってもいい。
料金もそれなりにしたが。
ちなみに、ロッテホテルのトイレは日本ブランドであった。
ガスマスクはソウルのどのホテルのどの部屋にも装備されているようで、北との緊張関係が現実であることをうかがえる。

木浦は、朝鮮半島の南西部に位置する。
光州空港から車で一時間ぐらいのところだが、金浦空港でのつながりはよくない。
ソウルからの移動だと、他に電車とバスが利用できるが、いずれも3時間から4時間ぐらいかかり、仕事で訪れるのには便利なところではない。
釜山へ飛行機で移動し、そこから鉄道を利用すれば近いのではと思うのだが、光州と釜山は仲が悪いらしい。
現在エクスプレスはなく、建設の予定もないらしい。
かつての百済と新羅、あるいはそれ以前から続く確執。

最初に泊まったホテルは、整備された海岸通りに面していて、海上で行われていた水のイリュージョンに夜遅くまで人が往来している様子が部屋から見ることができた。
ちょっとしたリゾートのような雰囲気であった。
近場の海は良い漁場のようで、この街では刺身料理が普通に食されているようだった。

一方、訪問した工場は現代造船を中核とする巨大な工業団地の中にあった。
造船に必要な様々な要素の生産工場がこの工業団地には集約されているので、鉄骨構造物であれば、効率よく、効果的な生産を行えるような体制がうががえた。

ここのところの円高もあって、韓国の労働単価は日本の1/2以下といわれる。
技術や品質については、船を作るに置いて大きな差があるとは思えない。
一般鋼材の品質についても同等。
固定資産としての工場の設備や、工業団地としての全体的なシステムや統合性については、新しい分、日本よりも効率的だ。
市民の持つバイタリティーは、かつて高度成長期の日本人が持っていたものと同質か。

日本の重工業や中小製造業の古い設備と様々な制約、非効率なネットワーク、高コスト体質では、同じ製品を作る場合、もはや国際的な競争に勝つことはできない。
日本の中小製造業は国内のマーケットを頼りにしているのだろうが、国内においても、輸送コストを上乗せした海外製品に価格で勝てないケースが大半だろう。
今はまだ、日本独特の商習慣や人の関係、相互依存、信頼、保守サービスの点で日本の会社が有利な点はあるのだろうが。
そうはいっても、対抗手段としての海外への生産移転の流れは、現時点で最も現実的な対応策として、今後も続いてゆくだろう。
それが更なる海外勢の強力化と国内の空洞化へつながってゆくとしても。
どうする日本!?
どうなる日本!?

インド

バンガロール、2011年9月25日~29日。
インドについてはみんな、ほとんどイメージが先行していると思う。
例えば、
アジアであって、アジアではない国。
インド人。
右手で食事をし、左手でお尻を清める。
仏教の発祥地なのにヒンズー教がもっとも浸透し、それは社会基盤や生活に大きな影響を与えている。
ITの優秀な技術者。
世界地図で見ると、インド洋に突き出たインド半島。そこだけカレー色をしている。
香辛料。下痢。
巨大な人口、増え続ける人口。黒い肌、ぎょろっとした目。いかつい顔。
すでに母国語でカスタマイズされている聞き取れない英語。早口。

今回の旅ではそれらを確認した。
では、インディアンスピリッツとは何か。

ソール。ナマステ。魂の尊重。
生活や家族、自然や神々に平和の祈りをささげる人たち。
穏やかな人たち。
一方、その思想のためか、彼らの社会では多種多様な様式が共存し、対立さえも受容しているようだ。
多様な民族、宗教や信仰、社会的格差(階級)、経済的格差、都市と農村、破壊と再生、ルールと自己責任、牛と豚、アルコールやたばこ。
そして、車とバイクと人と動物。
社会の発展が経済や技術の展開に追いつかない状況は発展途上国にみられる傾向であるが、差別さえも当たり前のように容認されている。

ほとんどカオスのような混沌の中で、自ずと協調しバランスを保つ。
細い人か太った人しかいないのも、極端な社会の一面を痛切に表している。
人口が多いからと言って、人があふれているのは都市部や街においてのみなのであろう、見渡せば、街の外には緑が広がる。

中国とともに世界の経済へ影響を拡大してくるのは間違いないだろうが、一方で、彼らの思想は西洋世界の合理主義と根本的に異なるものであり、資本主義の点では効率的なものではない。
インド人が西洋を受け入れたとしても、それは種々様々な違いを受け入れるという意味の是認であって、自らを積極的に変えていこうというものではない。
ベースを同じくしての競争であれば、インド人的思考は縛りとなるだろう。
インドが経済的に台頭してきても、インド人の思想がインド以外へ浸透することはあり得ないだろう。

ところで、
今回のインド出張ではビジネスクラスであった。
正直、その優越感は感激の感がある。実際に、飛行機に乗るのは楽であり、楽しくもあった。

今回の会議では、少しだけ会社の将来に対し明るい希望が持てたともいえる。
が、しかし、ビジョンやターゲットを示したとしても、もっとも重要なのはその実効であり、その改善である。
この点においては、あまり具体的な将来像は描けなかった。
まだ若い組織であり実績も聞かない。
リーダーの実行力、実情の分析力と技術的な能力、社内での役割と位置づけ、ネットワークの最適化、ツールと手法、各サイトや部門の人材、流動化、等々において新たに疑問を抱いたというのが実際のところだ。

印象に残った言葉:
リーダーシップで重要なのは、達成すること。
ネットワークが確立されても、アカウンティングについては、その現場現場から移すことはできない。
BAT:Behavior、Atitude、Thinking。振る舞いや態度は身についたものだから変わるものではない。考え方を変えることによってのみ、それらを変えることができる。
態度に問題がある人は、技術が高くても評価されない。
出世する人には、マルチタスクの能力が必要。

シンガポール

リークアンユーが造った小さくて大きな先進国、2011年9月29日、10月1日。
人口520万ばかりの小さな国であるが、アジアと欧米のハブとして認められ、世界的なランキングでも上位に顔を出す。
しかも、まだその発展は留まらない。
その様は想像を超えていた。

リークアンユーと小さな政府により進められた政策は、開発独裁といわれながらも大きな成功を収めた。
リークアンユーと小さな政府だからこそ、あるいは、そうであったからこそ遂行することができたともいえる。
英語教育、計画的な都市開発、厳格な社会ルール、そのようなものは、トップダウンによる強制力なくしてなしえないことだ。

成長戦略を柱とするその政策は、海外からの優秀な人材や企業の投資を呼び込みながら、教育や法令により社会レベルや生活レベルを底上げしつつ、目覚ましい成果を上げた。
競争力は最大の効率にまで高められ、整然とした社会と先進的な開発力や技術力を手に入れた。
建築物に見られる総合的なアート性から見えるのは、世界的な流行なのだろうが、コストだけを重視しているわけではないということだろう。
国民の多くが英語と中国語に堪能であるのは、今後の中国との関係においても大きな材料といえる。

先に訪問したインドと比べるとき、ルールを最優先とすることによる効率性と効果について、その有効性が証明されている。
もちろん、目指すものが違っているのだから、結果についてとやかく言うつもりはない。
歴史に基づく伝統や文化を踏襲しながらの市場原理の導入。一方は経済合理性の積極導入。
ほとんどの国は、シンガポールのような政策を現実的にとれるわけではないのだから、結果論で語るのみだ。