旅の記録SP - USA -
プロローグ
アメリカに行って、グランドキャニオンを見て、ナイアガラフォールスを見て、ニューヨークに行って、そして人生観や価値観が変わったという人がたまにいると聞くが、ものの見方や考え方に影響こそすれ、人生観や価値観はそんな簡単に変わったりはしないものだ。
その人たちは、それまで何をみて、何を感じて、何を考えて生きてきたのだろう。
幸福な時代、幸福な人たち。人生観や価値観は成長に伴って育まれるものであり、深い悲しみや困難によって変化するものだ。
我々は今、何の時代に生きているか?
高度経済成長はずっと前に終わりをつげた。
歴史は繰り返しこそすれ、過去に戻ることはない。今の時代をたとえるとすれば、いろいろな表現があるだろうが、やはり、自分は、「情報の時代」と言いたい。
重要性は人によって異なるとしても、我々は、溢れ出る膨大な情報に適切に対処しなければならない。何が、いつ、どこで、どう正しいのか、正しくないのかを判断しなければならない。それが、今の時代を生きる我々にかせられた試練でもある。
情報は、イコール現実ではない。情報と、想像力と現実。その繰り返し。ただ、現実の全てを知ることなどできない。
グランドキャニオンも、ナイアガラも、ニューヨークも、みんな知識として、情報としてもっているはずだ。
知らないのは、それに実際に直面したときの感覚だ。
降り注ぐ情報に惑わされることなく、感性と理性をもってこの時代を生きることが、すなわち現代といういう旅に課せられたテーマだ。
渡航
こうしてアメリカ行きの飛行機に乗り込んで狭い座席におとなしくじっと座っていると、行動が制限され到着までのある一定時間をただ待つということだけに費やさざるを得ないためか、何もしないでいる、あるいは何もしないでいいという雰囲気を満喫することがなかなかできない。そういう気分になれない。会社を辞めてフリーだとはいえ、せわしない現代社会に生きていると、何もしないでいることが罪のように感じられたりもするものだ。
だが、今の気分はそれだけではないだろう。
自分が今、地上遥か雲の上の米粒のような飛行機の中にいるという感覚離れした現状を、十分に実感することができない。
この幅11列の窮屈で長っ細い奇妙な空間と外界とを隔てているのは、薄っぺらい鉄とガラス板なのだ。狭い窓から外を眺めてみると、一面雲の遥か下に人間界が広がっているのを想像できる。
指の腹で押しつぶせるのではないかと思えるような薄っぺらい地表面に、海の中に手を突っ込めば押し出される海水によって水浸しになるのではないかと思えるような平べったい街が、海の際まで、所狭しと広がっている。
静かな、いつまでたっても動きださないかのような、人間の住む地表。
ここから想像しうる外界の様子は異様に静かであり、この奇妙な空間の中もいたって平穏だ。
感覚離れしすぎているためか、ついつい安穏とした錯覚にとらわれる。
この不思議な空間は現実に存在しいま自分はそこにいる。
しかし、考えてみるとまさに驚きなのは、自分は高速で空を飛ぶ鉄の固まりの中にいて、翼の下に見えるジェットエンジンからはジェット燃料により高温高圧下で圧縮された空気が凄まじい勢いで吹き出しており、窓一枚隔てた外側では物凄い勢いで空気が流れているという事実だ。
また、はるか眼下にある現実感のない、物静かな薄く平べったい地表面は、眠ることなく内部でエネルギーを放出し変化し続けているという事実だ。
時の進捗に伴い世の中は着実に変化していく。
生きているすべてのものは死と生に向かって営みを継続し、その存在を示そうと行動する。
食べて、寝て、仕事をする。
立ち上がり、歩き、ときには走り、より高いところへ登ろうとする。
この瞬間にも偉大な発明が世界のどこかで為されているかもしれない。
すばらしい記録が生み出されているかもしれない。
元同僚達はこの時間でも仕事をしているかもしれない。
今の自分を客観的に見れば、この狭い座席に押し込められた対外的に影響を与えることのない一個の在るだけの人間というところか。
確かに、もしこの狭い座席が空席であっても、この飛行機の中の小さな世界における営みに対してさえ何ら影響を与えることはないだろう。
影響があるとすれば、ユナイテッドエアラインにとってほんのわずかな収入減になるというだけだ。
世の中という視点から見れば、時は、自分の関係のないところで着実に今も過ぎゆく。
一方、自身の視点から見れば、この時の流れの中において、五感を澄まし、観察し、感じ取り、考え、生きる一人の存在としての自分がある。
今は一匹の迷いながらも考える羊であるが。
1996年12月27日付けを持って会社を辞めた。今にして思っても、すばらしいアイデアである。辞めたことに対する最終的な評価を下せるのはずっと後になるとしても、今の時点においては、この退社は必然の流れの中で行われた。
辞める意志が固まってきたころ、巨額損失の噂がながれ、業界の構造問題が徐々に顕在化してきていた。
実際、自分が辞める前の賞与は安定賞与として年6カ月が維持されていたが、辞めた後の夏の賞与は確か半額になっていた。
会社の暗転はさらに続き、大手商社と銀行による救済へとつながって行く。
会社がどこへ向かおうとしているのか分からない。
これは、退社を決意した理由の一つだが、当時、そこまで会社の状況が悪化すると想像していたわけでは決してないし、当時の心境では、悪化すること自体は自分にとって大きな問題ではなかった。
結果として、退社のタイミングはベストであったかもしれないが。
会社を選ぶ時は、結局は入ってみないとわからないだろうと考えていた。
今後何をやりたいかという具体的な目標、あるいは確信がない以上、会社を選ぶ基準は、その選択がその後の人生において納得できるかどうかということだった。
いいかどうかは、仕事の内容だけでなく職場の環境にもよるだろうし、そこに入って初めて明らかになる要素が多いため、経験しないと判断もしようがない。
逆に、どこに入るかではなく、入ってからどうするかが重要といえる。
当時、その後の人生を確定するような具体的な目的を持っているわけではなかった。
但し、人生をかく生きようというような信念は持っていたし、自我に対する強い意識もあった。
人生をどのように現実化するかは課題であり目的ではない。
いわば人生を完成させることが目的であり、実現することはそのための手段である。
就職は人生を現実化するための一つの手段であった。
情報を集めることも必要であった。
とにかくやってみようという意欲と期待に満ちていた。
実社会への第一歩をどこにおろそうかと。
そこにある何かが何なのか、六感を澄まし見極めようと。
踏み出せば自ずから道は見えてくるだろう。
選考は慎重に行った。
少なくとも、自分の人生を否定し偽るような選択はできないし、可能性を束縛してはならない。
当時はバブルも最盛期に入ろうかという売り手市場?だったので、数十社の企業の中から就職先を選択できる立場にあった。
大手メーカーに入るのがいわば標準であったが、メーカーにおける個々人の仕事の"標準"というものを次のようにイメージしていた。
メーカーは製品を作るが、個人レベルでの仕事は、製品という全体があってその一部品を作るに過ぎない、と。
流れ作業で部品が目の前を通過するのに腐心し、全体は見えないし、見通すこともできないという気がしていた。
実際は、専門性だけでなく、広範な知識に裏打ちされた客観的、あるいは相対的な見地が部品作りにも必要なのだろうが、制約が多すぎ、思考や行動範囲に制限を強いられるというようなイメージを持っていた。
従って、就職活動の当初からメーカーへ行くつもりは薄かった。
自分の能力を考える時、そのような場で自分の適性や欲求を最適に活かせられるとは思わなかった。
大学での専攻には全くこだわっていなかった。
専攻を活かすつもりで勉強、研究をしたという意識も持っていなかった。
指導教授のO教授、並びに講座顧問のT教授には申し訳なかったが。
その点、C社は十分な条件を持っていた。
海外展開、エンジニアリングという職種、実績、その時点での将来性、規模、新天地、所在地。
特に海外への赴任の機会が多いということは魅力であった。
当時より自分は日本という国におけるこの社会生活に、ある種の疑問を抱いていた。
これでいいのか?という問いかけにも近い。
植え付けられた価値観により狭められた思考、そうはなっていないか?。。。
開放された別の視点による発想の必要性。
外国に対する正確な理解。
良否の問題ではない。
海外にある期間住むことが、これらを正しく把握する上で必要であると考えていたし、今も考えている。
ただ、C社時代にこれ(海外で長期生活すること)が実現できなかった結果、現状では年齢的には困難になりつつあるが…。
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今回のこの45日間のアメリカ旅行の計画は、会社を辞めた後に具体化したものだ。
辞めた後どうしようかと漠然と考え始めたとき、別の会社にすぐに就職する必要はないということを思いついたのは、少ししてからだった。
貯金はある。
一年ぐらい働かなくても生活面での不安はない。
実社会での経験も十分積み、視野も広がった。
何より、好機である。
一つの会社に居続けていたとしたら、決してこのような長期休暇は実現し得ないであろう。
そう考えた時、長期海外旅行の構想が持ち上がった。
制限となるのは失業手当ての認証のために4月24日から25日置きに職安に出向かなくてはならないことだけであった。
アメリカ旅行は、こうして実現する運びとなった。
もちろん、海外にこれほど長く旅行する理由の一つに、学生時代より考えていた"海外に長期間住む"という目的に少しでも近づければという思いがある。
しかし、長期旅行といってもこの程度ではその地域にとけ込むのは無理で、その目的の本来の主旨を達成するに至らないことは分かっている。
それよりも、今回の旅行の目的は、自分がどこまでできるか、何ができるかを見定めるということと、とにかく経験するということ。
そして、自分の目で見て体感し、判断し、自分の中の不確定部分を埋め、それらを整理し、ゆくゆくは、今後の人生設計における資料の一つとするということである。
更に、最終的なテーマは、この時代を如何に生きていくかであり、それを身を持って表現することである。
海外に長期住むのに語学留学という手もある。
それもある程度有効な手段だと思う。
しかし、それに費やされる数ヶ月のことを考えると、はたして全体として自分に益となるのかどうか疑問である。
判断する方法はない。
他にもやりたいことがある。
ただ無為に時を過ごすのもいい、いろいろな場所にも行ってみたい。
多くの知識を身につけることも必要だ。
就職の計画、準備も必要になる。
仕事で海外に赴任させてもらうというのが理想的なのだが、年を経るにつれ責任も増し、実りのない苦労をすることになるとも限らない。
今後の課題の一つである。
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3月8日~11日 サンフランシスコ
最初に目にしたもの - 飛行機から見た土色に濁った海岸沿いの海辺。
ユニオンスクエアー、チャイナタウン、フィッシャーマンズワーフ、ゴールデンゲートブリッジ、ツインピークス、MOMA、ケーブルカー、…。
まずは、とにかく歩く。
腹は減ったが言葉の壁は大きく、容易にレストランにアプローチできなかった。
飢えてこのまま死ぬのではという可能性を考えてしまう。
このときの心境は次のとおりだ。
― 字幕なしの映画をみていて理解できなくて、この映画の中のような英語だけの世界に自分が入り込んだ場面を想像して戸惑いを受けたとしても、実際のところは、自分は映画の中の通行人の一人のようなものであり、決してストーリーには影響を与えない存在なのであろう ―
中国人が驚くほど多い。
顔立ち、容姿、服装、言葉、どれをとっても中国人。
巨大なチャイナタウン。
漢字の看板、中国製のおみやげ屋、中国人相手のスーパーが通りのいたるところに並ぶ。
スマートな中国人、ぶさいくな中国人。
スマートな中国人はアングロサクソンと比べても、ある意味、非常に魅力的。
チャイナタウンとは中国系アメリカ人のコミュニティー。世界中にあるらしい。
横浜の中華街のようなむしろ整然としたレストラン街のことをチャイナタウンというのかとイメージしていたが、それが単なる思い違いであることを強烈に認識させられた。
外国で生きる中国系アメリカ人の居住区、それがチャイナタウン。
他民族からは想像できないほど、彼ら中国人同士の強い結束。
チャイナタウンは、この後自分が見た限りでは、規模の差こそあれアメリカの主要な都市に必ず存在しいている。
海外へ進出するのであれば、まずはその国の重要な都市から攻めていくのが彼らの常套手段であるのだろうか…。
彼らはチャイナタウンにいるときはもちろん、ダウンタウンにおいても、中国人同士では中国語で会話する。
それが当然のことのようだ。
ことサンフランシスコのダウンタウンに関していえば、チャイナタウンからあふれた中国人で充満している。
平均しても人工の30%は中国系ではないか。
しかし、日本人が抱いているサンフランシスコというイメージからは、これほどまでここが中国色に染まっているとは連想できない。
サンフランシスコという土台を作り上げたのは、中国人の入植以前の人たちによるものなのだろうが、この状況を見る限り本当の姿が日本に正確に伝わっているとは思えない。
多くの物乞い。一見まともに見える人も…壊れている。
フレンドリー。
しかし、なんでこんなに人が多いのか?、観光客だらけなのだろうが…。
感覚を狂わせる坂道。
簡単な装飾が加えられた同じような形と高さの四角いコンクリートの建物が、坂道の両側に連なって整然と並ぶ。
平坦な坂道の傾きと建物の階段状の傾きが同調する。
水色、黄色、白、茶色系統の派手でない淡い中間色の色が慎ましく心地よい。
ダウンタウンでは電信柱は見かけない。郊外には見られるが。
ツインピークスからの一望も見事だが、町並みを見るのであれば小高い丘から眺めた景色がいい。
ケーブルカーあるいはバスで移動しているときに、ときおりなにげなく飛び込んでくる景観もまたすばらしい。
日本のどこそこと比べてどうだというような比較論は無意味なようだ。
異質のものである。新たに自分の中にこういうものだと定義するしかない。
日本人がアメリカについて想像するとき、アメリカの犯罪、ホームレスの問題を、その部分だけ日本の社会にダブらせて問題視してしまいがちだが、それは正確な視点ではない。
それらの問題はアメリカという国の一つの側面であり、アメリカという存在から切り離して考えられるものではない。
そのような問題イコールアメリカとはいわないが、そのような問題のないアメリカはアメリカではない。
ボロ車、物乞い、観光客、中国人、裏道のうち寂れた様子。
これらも含めてこの街は成り立っている。
そしてこれらは、この後、アメリカのどの都市にいっても目にすることになる。
ここはアメリカ、これがアメリカ。
フィッシャーマンズワーフからゴールデンゲートブリッジ方面へ向かう途中、砂浜にでることができる箇所がある。
海辺の砂の大きさはさほど変わりないか。
砂粒の色は、橙、黒、白(半透明)、茶、混ざり合って全体としては比較的黒っぽい。
砂を撒き上げ海の色は土色っぽい。
砂は白いというイメージがある。
が、もしかしてこれは作り上げられた先入観によるものであって、新居浜の海辺の砂もこんな色だったかもしれない。
途中、一人の日本人観光客に偶然会う。
医学部の学生で春休みを利用してこちらに来てるという。
ニューヨークから移動してきたばかりで、姉夫婦がサンフランシスコにいるということだった。
きっと自分とはここにいる目的は違っているのだろう。
若くして海外を旅する建設的な意志、行動力。
自分のような内省的なものではなく、成長するための経験、一つの過程。
まだ若いが、このような若者がいずれ日本のリーダーになるのだろう。
日差しがきつく、快晴であった。
自然とお互いに名前はなのらない。
自分のように長期間の自由旅行をしている者はやはり珍しいようで、会社を辞めてこうして旅行をしていることなど簡単に話をした。
得られるものよりも失うものが大きくなったときが、新たなる行動を起こすときだと思う。
逆説的であるが、時間を切り詰めて仕事への奉仕を限界まで突き詰めて得られた結果は、時間の大切さであった。
そして濃密な時間を費やして成し遂げられる結果の大きさであった。
また、年を経ることもあって認識せざるを得ないのは、時間に限りがあるということだ。
若いうちに苦労せよとの言葉があるが、この言葉通り若いうちに苦労するのは良いと漠然と思っていた。
経験しないと本当の事は分からないと思っていた。
自分なりに苦労したと思っているが、その結果として得られたものは十分にあった。
世界観が広がる、自分の殻の向こう側を知る、責任、社会のきびしさを知る、更に自分の能力のレベルを知るなど。
一方、こだわりを捨てなければならない、自分の信念をゆがめなければならないなど、自分が温め考えてきた生き方に対し危機感を感じる場面もあった。
自分は感覚、感性を大事にする。
感覚、感性はアンテナとなり、見えないものを教えてくれ、未だ知らない世界への懸け橋となる。
今の時代をどのように生きるかを考えたとき、前時代における生き方は参考にしかならない。
マクロ的に見ればその時代に合った生き方というのがあり、大勢は徐々にその方向に向かう。
ミクロ的に見れば、時代の先端において多岐に渡る生き方が試みられ、その結果時代の先駆けとなる。
大勢に身を置いて生きるのは安全にみえるが、今の時代、何に対して安全といえるのか?
また、何が安全でないといえるのか?飽食の時代は成熟し、今また新たな時代が訪れている。
自分は大勢に身を委ねるような生き方はできない。
感覚的にそれは自分に対し危険な行為と感じる。
これからを考えるとき、このままではつまらない人生になると思った。
これは一つに、今の環境に身を置き続けた場合に送るだろう、これからの人生が見えているからである。今のままで自分のエネルギーを放出し続けたとしても、それは時代の趨勢に置いて微々たるものにもならないだろう。
もう一つは、この職場環境を心底から肯定することが出来なかったからである。責任感と義務感だけでは続かない。矛盾を抱えたままでは納得できる形で仕事を続けていくことは出来ないだろう。
最初からこれらのことを達観する能力があれば苦労をする必要はないと思うが、これらは自分が生きることに真摯であった結果、手に入れることのできた一つの結論だと思う。
これは、この6年間の総決算ともいえる。
沖縄でのA井GLとの面談(確か場所は京都観光ホテル1F食堂)において、GLより次のJOBとしてTGCを打診されたとき、自分の中で退社についての方向が固まり始めたのだと思う。
一貫してこれまで海外を希望してきたが、希望は叶えられず国内の大型工事。
工期は28ヶ月。
この工事が終わると次のJOBにアサインされるのは入社6年を経過した後。
配属に関しては反論はしなかった。自分の希望を考慮した上で自分の能力を上司が判断した結果と解釈したからだ。
しかし、S田GLからA井GLへ上司が変わり、自分の希望は伝えられていたのだろうか?
後のO形GLへの移行時のO形GLとの面談でそれははっきりする。
GLからGLへの引継において、所属員の希望は引き継がれていないようだ。
TGCが終わると、もう32歳。働き盛りでそれなりの期待をかけられる。
期待を裏切らないよう自分は身を削りながら仕事をするだろう。
それは自分の性格とこれまでの経験から判断できる。
期待された以上にやってきた自負はある。
やれるという自信ももっている。
しかし、自分の生き方に疑問を持ちながら仕事をすることになるだろう。
疑問を解決できない限り苦しみは深まるだろう。
海外JOBにアサインされた場合はどうか?
やはり、まじめに仕事をするだろう。
新たなる目的を持って。
また、新しい体験に刺激されながら。
しかし、もう若くはない。
与えられた任務を遂行するためには、これまで以上の努力をする必要があるだろう。
その努力に報いられるだけのことが得られるのだろうか?
激務に追われながら自分の生き方について思索する間もなく、時間は経過するだろう。
これまでを通して、この仕事に対する理解は深まった。
権限を与えられ、責任を持ち大きな仕事を自分の判断でもってやり遂げる。
エンジニアリングの立場に立つため上下左右の見通しがよく、自分が何をやっているのかがよく分かる。
設計から建設まで一貫して担当するため、様々な体験ができ達成感を得られる。
自然に知見、知恵が深まる。
しかし、自分はこの仕事において生きることの証を見いだすことができるのだろうか?
人生を成就できるのか?
職場の座席に座って廻りを見渡すとき、はたしてこの中に自分の理想とする人、目標とする人、あるいは付いていこうと思える人は、いない。
問題は分かっていた。
自分がこの仕事に向いていると思うことができないのだ。
時折、自分が場違いなところにいる感覚にとらわれる。
昔から自分はサラリーマンにはなりたくなかった。
しかし、サラリーマンとは優秀な人たちの集まりだ。
世の中にあまたある職種の中で、サラリーマンとは何と厳しい仕打ちに耐え、鍛えられ成長し、そして経済大国日本を支えていく存在であることか。
C社に勤務したこの数年は、ミニバブルともいえる利益なき繁忙のピークにあり、いくら働いても仕事を消化しきれないような状況であった。
ITの進展に伴う情報量の増大とその処理に当る業務ツールの飛躍的効率化により、一人当たりが取り扱う仕事の量がかつてないほどに増大していた。
この変化において蓄積された歪は、やがて質の低下とマネージメントの混乱をまねくのであるが、実務担当者レベルでいえば、若くして重要な仕事に挑戦する機会でもあった。
この中で数年間を過ごし、それなりにやってきたことは大きな自信である。
この厳しい世界でやっていけたのだから、どんな世界へ行ったとしても、少なくともやっていくことは出来るだろう。
今の世の中には情報が氾濫し、錯綜している。
どの情報を受け入れるかは、多くの場合、感覚的に判断するしかないが、素直に、情報を受け入れ続けるとどうなるか?
正常であれば屈折した心理が生まれるだろう。
その屈折した心理を蓄積し、凝縮してエネルギーとして放出する。
自然とそのエネルギーは、社会が欲する方向へ放たれる。
それが自分のやり方である。
今またエネルギーが蓄積されてきている。コントロールし、補正をし、更に洗練させて放出されるのを待っている。
考えるにこのときは大きな転換点に来ていたのに違いない。
機が熟したのだろう。
自分の思想の基本形は学生時代に既に完成している。
後はそれを体現することと思っていたが、それには経験による補完が必要だ。
自分のこれまで生きてきた道は、客観的に見て特別なものではない。
いわゆる普通の生活についてはだいたい分かった。
それ以上を知るには、他人と異なる生き方をすればいい。
但し、それが信念をもっての行動でなければ道はとぎれてしまうだろう。
また、能力がなければ、やがて消えていってしまうだろう。
道とぎれ、あるいは道半ばで倒れてしまうのならば、それも人生だろう。
自分を押し殺して、目の前の轍をたどって歩むだけでは、存在の可能性を放棄するのと同じだ。
生きる環境を変えるということは、そう簡単にはいかない。
自分の決意とは別に、廻りの状況を考えなければならないからだ。
この点自分の場合は前々から予想していたことなので、わずらわしいしがらみなどはない。
今回のJOBで会社人としてのけじめもとれるだろう。
今後自分のやることに対し自分で責任をとれば、家族を別にして基本的に他の人に迷惑をかけることはない。
入社後、とにかく精いっぱいやろうと思っていた。
経験を積む、自分を試すという意味でも。
一方で、転職を前提に入社したとも同僚に公言していた。
会社の為に働くのではなく、自分のために働くのだという意識を当初より持っていた。
入社面接の時、学生生活で得られたものは何かという問いに自我意識と答えたところ、そのときの面接官だったY取締役に関心いただいたのが思い出される。
こういうことを理解してくれる人が偉い人にいると知ったのも、実社会への一歩を踏み出したフレッシュな若者にとって、小さな驚きや発見の一つであった。
会社では、いろいろ貴重な経験を積んだ。
普通の会社では味わうことは到底できないだろうと思える経験も。
それらについて、今、振り返ってみると、すべて良い経験だったといえる。
中には在社中なら嫌な思い出のままであるが、辞めた今となっては、無責任かも知れないが良い経験になったといえるものもある。
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3月12日~14日 ロサンゼルス、ラスベガス
サンフランシスコでレンタカーを借りてロサンゼルスへ向かう。
当初の予定では、この日ヨセミテ公園に行くつもりであったが、レンタカーショップのカウンターで今の季節は日曜日しか開いていないと教えられる。
日程的にヨセミテは難しいと判断し、残念であるがあきらめることにした。
変わりにグッドアイデアが浮かんだ。西海岸をドライブするのも素晴らしい。
日本でオープンカーに乗っている人がたまにいるが、スモッグの多い町中で、しかもよく雨の降る日本の気候においてオープンカーとは何か勘違いしているのではないか?
オープンカーはやはり西海岸だ!…というようなことを思った。
レンタカーがオープンカーだったわけではないが。
サンフランシスコのダウンタウンから、まずはゴールデンゲートブリッジを渡り、引き返した後、US1に出て海岸線をドライブする。
クルーズコントロールがついているのがうれしい。
アメリカでは装着車が標準に違いない。
ムーンベイ。快晴。もはや説明できない。
時速60マイルを60キロの感覚でドライブ。
しかし、やはり左ハンドル、右側通行には戸惑う。
初めて給油した後、気が緩んだのだろう、知らず知らずのうちにしばらく左側を走行していた。
対向車が来るまで気がつかなかった。
ロサンゼルス。西海岸の巨大都市。
巨大といってもダウンタウンの一角に聳え立つ摩天楼の規模は、それほどでもない。
他の都市と違って、広い地域に渡って形成された街、というのがここの特徴である。
ユニバーサルスタジオ、ハリウッド、ビバリーヒルズ、グリフィス、ダウンタウン、チャイナタウン、リトルトウキョウ…。
最初にユニバーサルスタジオを訪れた。
改札の前で、入るべきか入らざるべきか散々迷ったあげく、入らないことにした。
一人で入ってもつまらないだろう。
機会があれば、今度は誰かと来よう。
世界に名の知れ渡った観光地各地を見てまわり、楽しむ一方で、気分は優れなかった。
決してアメリカ人のように振る舞えるわけではない。
アメリカにとって自分は、金を落としていってくれるだけの存在なのであろう。
金を出す以外にこの国に影響を与えない存在。
そこには個としての存在の意味はない。
他に影響を与えずしてその存在の意味はない。
この国から見れば当然のことといえば当然だ。
人がその存在価値を最も明確に出来るのは、社会的に認められるときだろう。
また、自分の存在を位置付けられるのは、自分よりも優れた存在に出会ったときだろう。
そして、自分の存在にやるせなさを覚えるのは、不釣り合いな女性を好きになったときだ。
人には優劣がある。
どんなに努力したとしても、また経験を積んだとしても報われることのない差がある。
才能というやつだ。
優秀な人というのは、確固たる信念を現実のものとすることができ、結果を示すことの出来る人のことだろう。
サラリーマンとしての限界は感じた。
しかし、自分は自分の存在価値をつまらないものだとは思わない。
自分の信念がゆらぐものではない。
ただ、信念を否定はしないが、自分のやってきたことに十分な自信を持っているわけではない。
結果を残していないからだ。
いつか自分に本当に自信がもてるように、挑戦していきたい。
人が社会的に認められるためには、その人の持つ最も優れた才能を引き出す必要がある。
才能を引き出す為には、その才能の生かされる環境に身を置くことが何より必要だろう。
では、今から何をするか?
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時速60マイルを60キロの気分で走れるハイウェイがある一方で、うんざりするほどいたんだ古いハイウェイがある。
それがしかも、ロサンゼルスの真ん中を走っている。
US10だ。
舗装はガリガリで乗り心地が悪く、決して快適とは言えないはずだが、アメリカのドライバーはこの5車線のハイウェイを平気で70マイルでぶっ飛ばす。
流れの妨げになるような遅い車はほとんどいない。
これが、もし帰宅途中のサラリーマンが運転していて、毎日こんなのを繰り返しているのであれば、たまげた持久力だ。
首都高速に初めて乗り入れたときの感覚を思い出す。
ところで、ここである重要なことに気づいた。
この巨大なハイウェイについてもいえるが、ダウンタウンの巨大なビルの古さは、アメリカというこの国の、いわゆる近代都市の歴史の深さに由来しているのだ。
アメリカというと、歴史が浅いというイメージを持ってしまうが、これらの都市の歴史、即ち、現代の歴史という点からいくと、日本よりもずっと深いものを持っているのだ。
ここはアメリカ、これがアメリカ。
車のラジオから北京放送が聞こえる。
本格的にラジオを聞き出した中学の時、自宅のラジオで選局していると必ず入ってきた北京放送。
日本でなぜ北京放送?と不思議な気持ちになったものだ。
今ラジオからもれてくる中国語の放送は、明らかにその目的が明確だが、かって自宅のラジオから流れてきた北京放送のときと同じように不思議に感じる。
ラスベガス。多彩な光で飾られた街。
ライトアップの集合が、暗闇の中に街の輪郭を浮かび上がらせる。
SF小説に、砂漠に存在する都市を舞台にした話があったが、そこも夜、遠くから眺めるとこのような姿をしているのだろう。
ロサンゼルスを草々に引き上げ、ラスベガスへと向かった。
ラスベガスに着いたのは夜になったのだが、そのおかげですばらしい光の作品を見ることができた。
最初は四方暗闇の中で、進行方向に光の帯が見えた。
徐々に近づくと、その光はそれぞれ形をなしていき、そこに現実とは思えない光の都市が存在することを確信する。
砂漠に出現した街、ギャンブルとエンターテイメントの街、ラスベガス、それが目の前に、在る。
ギャンブルをするつもりはなかったので、近くの観光地バレーオブファイアーを見た後、街の概要をつかむために昼ごろ再度ラスベガスを訪れた。
そこには夜のライトアップされた雰囲気とはまた違ったものがあった。
ザ・ストリップ通り。
どっしりとしたヤシの木、明るく暖かい感じの色とりどりの、そんなには大きくないビル群、看板、インスタレーション。
フーバーダムを経由しグランドキャニオンへと向かう。
広がる砂漠。
ここはアメリカ、これがアメリカ。
3月15日~19日 グランドサークル
遥か西に聳え立つ断崖に日が沈もうとする少し前、グランドキャニオンを望むサウスリムポイントの一つにたどり着いた。
夕方の霞がかった雲を通しうっすらと空全体にかげりが広がる中、西の空の薄い雲が、ある一点(その向こうに太陽がある)を中心に左右に長細く朱色に染まる。
北方向を正面にし、東から西にかけて、真下から水平線にかけて、ぽっかりと広大な視界が開ける。
水平線近くになるほどに青白くなる岩肌の色は、それが分厚い空気越しにあることを示している。
しかし、その距離を把握できない。
自分の中でこの現実をなんとか認識しようと、不可解とも思えるこの風景の原因を究明しようと、鈍く頭が回転する。
...テレビで見た風景と異なる。
テレビではよく上空からの景色を見たことがある。
だが、景色の違いがこの不可思議な気分の原因ではない。
目の前にあるものは、とにかく、巨大なのである。
巨大なキャニオン。
頭では分かった。
しかし、やはり感覚で捉えることができない。
テレビと映画館の巨大なスクリーンとの違い?
瀬戸大橋から下を見た時の感覚?
夜空を見上げ星々に思いをはせたときの?...
宇宙...
そこにあるが認識しがたい存在。
宇宙にも似た、異なった時空、時間軸が目の前に広がる。
ここに来るまでに見た景色についても感じていたが、日本とは異質の環境が自分を取り巻いている。
いや、異質の環境の中に自分はいる。
ここに住んでいる人にとっては普通の、変哲のないものであるのだろうが、自分が生まれ育った、これまで触れ合ってきたものとは異質なのである。
遥か昔に枝わかれして別の成長を遂げた世界があって、そこへもう一つの世界からスリップしてきたような感覚。。。
翌日、ブライト・エンジェル・トレイルを歩き、コロラド川を見下ろすプラトーポイントまで下りる。
上りの帰り道の大変さを忘れさせられる、強烈な印象を与えられた景色。
これは、一つの発見である。
世界中の景色のなかでも最もすばらしい景観の一つであることは間違い無いだろう。
その日のうちに次の目的地、モニュメントバレーへ向かう。
ここら一帯はインディアンの居住区であり、ガソリンスタンド、モーテル等で、インディアンばかり見かける。
特に太ったインディアンが目に付く。
自分の中では、太ったインディアンはもはやインディアンではない。
インディアンは滅んだのか?
インディアンの英雄の血族は、白人との戦いでみんな死んでしまったのか…。
道路に沿って伸びる電線とそれを支える細い電信柱。
入りにくくなってきたラジオ。
ときおり道路をまたぐ高圧電線の下を通るときにラジオに入る雑音。
乾いた空気、晴れ渡った空。
平坦でどこまでも伸びる道。
移動するにつれて少しずつ異なる地形、植物、色、岩、気候。
様々な条件が重なりこの大地を作り上げる。
同じような景色をさっき見たような気がするが、シャッターを押す指がとまらない。
同じようでも、いずれも絶景だからだ。
写真では、このスケール感は表現できない。
分かっているが、撮とらずにはいられない。
モニュメントバレー、レイクパウエル、ジオンキャニオン、ソルトレークシティー、レッドキャニオン、バイスキャニオン、再びレイクパウウェル、マーブルキャニオン、バレイオブゴッド、そして再びモニュメントバレー。
モルモン教の総本山、ソフトレークシティーは、その成り立ちとたたずまいが感慨深い街であった。
どこにでもいる日本人観光客。
中国人がどこにでもいることに関しては、もはや「なぜ?」などとは思わないが、ここまで進出するとは日本人も驚くべきものだ。
レイクパウエルを中心とするグランドサークルを満喫した後、フェニックスへ向かう。
3月20日~23日 フェニックス、オーランド
-英語をものにできれば文字どおり世界が広がる。
彼らの文化世界に踏み入れることができる。-
フェニックスに来た一番の目的は、LPGAを見るためである。
そこでがんばっている日本人を見るためである。
小林浩子、平瀬真由美。
二人に書いてもらったサインは、ほんの小さな一瞬のできごとであるが、一つの接点を記す特別な価値がある。
ゴルフコースで二人の日本人男性に出会った。ひとりはフェニックスに赴任中のとあるメーカーの社員。
もう一人はゴルフの取材に来ていた石川さんという人。
二人に力強い生き様を見た。
オーランドではPGAを見た。
一番の目的は尾崎直道のアメリカでのプレーと、タイガーウッズを見ることである。
アメリカは種々雑多、その中にすばらしいものが数%含まれている。
人口的に見て、あるいは一人の人間の中に。
特に、すばらしい数%の人からは得るべきことが多い。
しかし、そのすばらしさは、大多数の狂気の上になりたっている。
ここにも様々の人がいる。
アメリカの縮図がある。
溶け込めない異質の文化がある。
彼らの熱狂的な応援は、一種異様である。
アメリカ文化の歪み、否、アメリカそのものがここにある。
解き放たれ、彼らは、明らかに飢えている、ギラギラと。
全体としては崩壊することなく形をたもっているが、必然的に壊れた人々が出現する。
これがアメリカのバランス。
フィルミケルソンはいい。
しかし、彼は彼らのヒーローであって、日本人である私のヒーローとはなりえない。
太ったおしりの大きなアメリカ婦人…。
学校教育の弊害の一つは、人生の目標をもつきっかけを与えられないことだ。
教師自身もそれを理解していない。
きまり、押し付け…、教育という名で与えられるものは、人生においていかにあいまいで、無責任なのだろう。
何のために、なぜ?…、問いを許さない。
尊厳な言葉で武装し、個人の目的意識を押しつぶし、歪めていく…。
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3月24日~27日 ナイアガラフォールズ
開発される前にこの滝を訪れた人の感動が、実にうらやましい。
宿泊するホテルで明日の天気はと聞く。
通じない。
Weather もしくは Forecast の発音が伝わらないらしい。
中国人のスタッフがいるので、漢字で筆談を勧められた。
もちろん断ったが、発音は難しい。
もっと英語の発音を勉強しておけばよかった。
観光船がオフシーズンで運行されていなかったのが残念。
3月28日~4月8日 ニューヨーク
3月28日
早朝、バッファローからニューヨークに入る。グレイハウンドのバスの中からまだ明けきらぬ暗闇に摩天楼と思しき影を見る。
バスターミナルに着いたのは5時半頃。
バスターミナルから外の様子を伺う余裕は、荷物に注意を払わなければならないことと、先入観として持っている早朝ということの危機意識から、無い。
現時点では、ニューヨークについては先入観しかない。
時間はたっぷりある。
これから、自分の中にあるニューヨーク、即ち「世界一の都市」のイメージを確固たるものにすべく、自分の中の不確定部分を埋めていくことになる。
この存在を体感し、事実を受け入れ、情報を整理し、今を生きるというテーマを具体化するための足がかりとして。
危険といわれるがどのように危険であり、危険でなく、どういう種類のものなのか。
人種のるつぼといわれるが、どういう状態なのか、5番街とはどのようなところなのか。
メトロポリタンミュージアムとは。
成功する一握りの人たちと成功を夢見る大多数の人たち、そして壊れた人たち。
自由の女神は自分に対し微笑むのか。
何がそこにあるのか。
しかし、言葉に不自由するということと予算が少ないということは多くの部分で制約を受ける。
ただ、現時点でできることをするということはそれなりに意味はあるだろう。
グレイハウンドのバスディーポから地下鉄に乗る。
景色も看板も無く、コンクリートの固まりの中に穴があいているような、殺風景である。
ホテルに近い地下鉄の出口から地上に出る。
周りは古いが重厚な建築物と、その建物に似合わないこまごまとして明るい商品と看板が建物の一階を構成している。
この風景はサンフランシスコでもあった。
しかし、一旦見上げれば、また通りのずっと先を見れば、明らかにその違いが分かる。
まず不思議に思えるほど高く、通りの先まで同じような風景が続いている。
Park Sovay Hotelからセントラルパークに出る。
セントラルパークの少し入った通りから町並みを見る。
まだ葉の無い木々を透かしてその町並みが存在する。
重厚な面持ちで静かにたたずむ。
コンクリートとレンガを基調とした全く派手さの無い色。
何の建物かはわからない。
その用途も、使われているのかどうかも分からない。
いつ建てられたのかも。
が、その建物はずっとそこに存在し続けてきたのだろう。
今と変わらない面持ちで。
この段階で、ようやく一つのニューヨークの側面に気がつく。
巨大な、天を突く建物は、エンパイヤステートビル、ロックフェラーセンター、クライスラービルなどの名の知れた一角だけではなく、この街全体に渡り展開されているということが。
巨大ビルの集合体、ニューヨーク。
-このような町は文字どおりいままでに見たこともない。
巨大だ。
これまで見てきたどの街よりも。
大阪よりも、横浜、東京、新宿、また、ロサンゼルスよりも。
そして、明らかにそれらの町よりも歴史がある。
かの大戦の前に既に存在していた町。
日本が戦争をしかけたことに関してよく引き合いに出されるが、もしこのアメリカを知っていたなら、勝てる見込みのないことも分かっただろう。
その規模について感嘆する。
(但し、この街以外をこれまで見てきた感じからは、他の街の規模に対してここが圧倒しているが)
自分の中で整理するのにこれまでの経験が役に立たないというのはこのことだ。
経験から導き出される想像の範囲を超えている。
歴史の前に、現実の存在の前に、畏敬の念をただ感じるだけである。
自分にとって全く新しい存在であることは間違い無い。
グランドキャニオンも見た。
ナイアガラフォールズも見た。
自然の作り出すすばらしさは日本においても目にしてきた。
自然が持つ素晴らしさは、自分を取り巻く環境に常に存在していた。
生命の持つすばらしさも、自分の身の回りで身近に体感できた。
それらは、どうにかこうにか自分の中に位置づけることが可能であった。
一方で、この街が表現する人間の偉業をどのように理解すればよいのか。
分類することに意味は無いだろう。
まさに体感し、新しい事実を受け入れるしかない。
ブロードウェイ。
東西南北にきれいに区画された街の中を斜めに、自在曲線定規でひいたように伸びる通り。
その中にいっそうネオンや看板に飾られた一角がある。
そこはビルの高い部分まで看板が目立つ。
この通りには劇場がいくつもある。
その中の様子は、外からは窺い知る由も無い。
全く別の世界が、扉の数だけその向こうにある。
ブロードウェイを南下し、6番街を北上する。
6番街。
メーシーズのフラワーフェア。
まさしく異空間。
映画に出てくる世界。
その完成度の高さに感嘆。
首を静かに横に振るしかない。
カフェテリア形式のチャイニーズレストラン。
気楽に食事ができる。
町角ではパフォーマンス。
点在するスーパーマーケット。
便利である。
3月29日
いつものように、とにかく歩く。
通りはどこも広く、人で賑やか。
5番街を南下。
恐らくこの格好で入ったらまずいような、また、買い物など絶対しないような高級品店。
ロックフェラーセンター、トランプタワー、教会、図書館。
また東に移動し、グランドセントラル駅、クライスラービル、国連ビル。
5番街にジャパニーズレストラン発見。
鳥から弁当を食べる。
ここのライスはほとんど日本的。
ただ日本のいい米ではないだろう。
過保温でもあった。
日本の書店を発見、OCR。
ニューヨークでは日本人をあまり見かけない。
日本人のようなチャイニーズ。
よく見ればチャイニーズ。
しかし、一歩本屋に入ると日本人がいっぱいいた。
店員の一人以外は日本人。
ものすごい日本人の人口密度。
ただ、お互い親しげに会話などしない。
みんな知らない他人なのだから。
雨。
雨にはまいる。
局地的に吹くビル風で横からあおられるからだ。
一直線に長い通り、高いビル群。
少しの大気の変化でも、通りに強い風を引き起こす。
3月30日
昨日の天候からは想像できない好天気。
朝からローアーマンハッタンを目指す。
チャイニーズタウン。
サンフランシスコで驚嘆したが、まさしくここもチャイニーズタウン。
かってヨーロッパの移民が築き作り上げただろう建物を占有するのは、かのチャイニーズ。
99%チャイニーズ。
歩いて渡れるブルックリン橋。
澄んだ晴天の元、マンハッタン中心部を右手に、そして自由の女神を左手に見ることができる。
ビスタポイント。
エンパイヤーステートビルに登る。
86階の展望台。
下から見たときあれほど高いと思っていたビル群が下方に見渡せる。
これほど高くに上り静止した経験は初めてだろう。
あるとすればグランドキャニオンのプラトーポイントか。
なお、ここは日本人の人口密度が増加するポイントのようだ。
5番街で歩行者天国。
日曜日はいつもこうなのか不明。
日本人らしきタップを踊る女性。
その素性は窺い知れない。
再び南下しブルックリン橋、バッテリーパークを散策。
スタッテン島行きのフェリーに乗る。
遠ざかる巨大ビル群。
確かにこの光景は映像で見たことがあるが、ここにその存在を体感する。
海上と水平な大地に建ち尽くすビル群。
限られた大地にその高さをこれほどまでに主張するとは。
フェリーは自由の女神の正面を通過する。
やはりニューヨークのシンボルである。
3月31日
こうも天候が急転するとは。
朝から雨。
本日は日本書店で立ち読み。
夜、朝からの雨はみぞれ、そして雪に変わる。
雪に煙る街ニューヨーク。
4月1日
……横浜美術館にゴッホ展を見に行ったとき、美術館なるものがなぜこれほどまでに重厚な建物なのかと不思議に思ったが、何のことはない、恐らくそれは西洋の美術館の模倣なのではないか。……
メトロポリタン美術館。
歴史品の宝庫。
歴史上におけるガラスの位置づけについて、重要なところは少しは理解できた。
ギリシャ、ローマ、エジプト、イスラム等のそれぞれの歴史において、ガラスは磁気等と同様に歴史を記す資料として位置づけられている。
2000年前にテレビ、コンピューターを作ることはできなかったが、すぐれた彫刻は作ることができた。
この事実。
現在、様々なアートの表現手法があるが、既に確立された多くの分野もある。
過去のある時代にのみ成り立ったアートもある。
アートはその時代を写すことに一つの意義があるが、歴史の流れで見なければ成り立たない。
ロバートリーマンコレクションの所で、最初にルノワールの名画に出会った。
日本の美術館のような人だかりはない。
名画と一対一で対峙する。
ピカソ、ブラック、モディリアーニ、キリコ、ルオー、マチス、ロダン、マイヨール、ミロ、カンディンスキー、モンドリアン、シャガール、シニャック、ミレー、マネ、モネ、シスレー、レジェ、ピサロ、スーラ、ルソー、ドガ、ロートレック、セザンヌ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ、クリムト
ブロードウェーでキャッツを見る。
メモリーの熱唱。
いつかもう一度日本で見よう。
4月2日
パークサーボイホテル($70、$85)からマジソンホテル($65)へ移動。
ホテルから歩いて南下。
ソーホー、ヴィレッジをうろつく。
世界貿易センタービル、エンパイヤステートビルより夜景を見る。
沖縄へ行く飛行機から見て以来の、あるいは首都高速から見た夜景以来の素晴らしさ。
まさにニューヨーク。
4月3日
シャネルに入る。
スチューベンスで見学する。
MOMAに行く。
モネ、セザンヌ、ルソー、ゴッホ、ピカソ、カンディンスキー、ムンク、クリムト、シーレ、ココシュカ、シャガール、ミロ、モンドリアン、クレー、ワイエス、ウォーホル。
4月4日
アメリカ自然史博物館に行く。
1階の鉱石の展示品、世界一のスターサファイヤの輝きを見る。
その他多数。
恐竜の化石。
マンモスの化石。
絶滅した種。
かって生きていた、長い時をかけ進化し、その時点で最強最高、頂点に君臨した生物。
現在の種とはほとんど異なる進化を遂げた生物。
かって存在した、現在とは別の、全く異なった驚異の世界の生物。
その絶滅とともに、かつてそのような世界があったことは、信じがたいことの一つである。
今は人間が過去から未来にかけて、ずっとそうであるかのようにこの世界を支配する。
4月5日
グッゲンハイム美術館に行く。
フランクロイドライトの設計。
ムーア、ジャコメッティーの彫刻、カンディンスキーのいつもの抽象画、ドローネのエッフェル塔。
セントラルパークの桜並木。
まだ二部咲き。
先日の雪のせいか木によって咲きかたに違いが目立つ。
この国の気候に戸惑っているのだろうか。
ルーズベルトアイランド、クイーンズに渡る。
クイーンズで降りた駅の周辺は雰囲気が良くなかった。
たまたまかもしれないが。
ブルックリンに渡る。
ブルックリン橋の北側、イーストリバーに近づこうとうろついたが、やはり、雰囲気が良くない。
人影ほとんど無し。
ビルは古びて手入れがされていない。
そもそもニューヨークは古い街である。
ガタがいろんな所に出ている。
歴史があるということは、時代の趨勢にさらされているということだ。
ときには立ち向かい、ときには変革を迫られたりもする。
マンハッタンの戦前に建てられた主要なビル群は、この変動に耐え時代の要求を取り入れた結果、現在に至る繁栄を手に入れた。
このあたりのビル群、恐らくハーレムなどもそうであるのだろうが、時代の変化に置き去りにされたうら寂しさがある。
ここには廃虚に至る道しか残されていないような。
人間の作ったものはすべて、作られたときがどんなに立派であっても、ほっておくと朽ちていく運命にある。
栄枯盛衰の狭間。
ブルックリン橋のブルックリン側つけ根の南側ピア1にビスタポイント発見。
昼間下見した後、夜景を撮るために再度来所。
車の通行量が多く、人影はまばらだが、この時間帯9pmでもあまり不安はない。
また、8pm頃でもブルックリン橋は歩いて渡っても大丈夫そう。
4月6日
空母イントレピッドを見に行こうとバスに乗り、通り過ぎた次のバスストップで降りたところ、そこでニューヨーク国際自動車ショーが開かれていた。
人にあふれ盛況であったが、特に日本車の展示に目新しさ、特別な試みは認められなかった。
メーカー各社、あまり力を入れていないのだろうか。
人間の作り出したもので巨大なものがいくつかある。
一つはビル。
そして橋。
それから船だ。
イントレピッドも巨大である。
6番街でシャツ、パンツ、靴を買った。
ホーキングのトレッキング靴はこれまで良く働いてくれた。
名残惜しいが持って移動する余裕は無く、今後の活動範囲を考えれば次の段階に進むことがベターと考え、ここニューヨーク5番街に葬った。
誰もは負けず嫌いである。
それは生存競争の原理より来る一つの真理と思う。
ただ、誰もが勝ち続けることはできない。
壁にあたって、負けて生き抜くとき強くなる。
あるいは妥協を知り生き方を覚える。
強い者が勝つ。
しかし、何を持って強いと判断するのか?
負けを知ることは大切である。
生き残るためにも。
自分より強い者がいることの現実を否定することは出来ない。
しかし、強い人がいても、その人があらゆる分野で強い存在でいつづけるということは不可能であるというのも事実だ。
誰しも必至になって生き抜くとき、競争の場は全力を傾けないとやっていけない高いレベルに達し、それは人間の究極の能力で争われる世界となる。
多才であっても、一つの才能しかなくても、結局同じ土俵で勝負するのであればどれだけそのことに打ち込めるかで最終的な勝敗は決まるのではないか。
凡才であって同じだ。
好きなことができれば一番良いが、好きなものには嫌いな部分もあるものだ。
完璧を求めれば切りがない。
例えば、自分に最もふさわしい人に出会う、というのは論理的ではない。
それは大いなる確率的な矛盾を含んでいる。
自分に最もふさわしい人(このような定義にこそ矛盾があるが)が現れる確率など無に等しい。
しかし、現実的には多くの場合現れるようだ。
それを運命と呼ぶらしい。
人を好きになることは理屈ではないようだ。
ある部分で仕事もこれと同じである。
理屈などこねないで打ち込むことがまず大事である。
そしてのめり込むことによりその先が見えてくる。
生きることとは?
考えて分かるのであればみんな知っている。
そもそもそれに意味などないといわれるかもしれない。
むかしは、わりと近いむかしまで、生き抜くことにほとんどの力を注ぐことが大多数の人の生き方であった。
そうでない人も、力の使い道がはっきりしていた。
いま、生き抜くことに力を注ぐ者は少数である。
当然余力が余る。
何に使って良いか分からない、使い道を間違えると危険な力となる。
誰にも止めることの出来ない時代の流れにより、新しい時代が到来する。
否定することはもはや無意味である。
人類に与えられた試練だから。
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4月7日
ある晴れた月曜日のワシントンスクエアー。
グリニッジビレッジの真ん中。
平日だというのに人の多さ。
ニューヨークの特色でもあるが。
若い人がやはり多い。
この中にきっと、やがて爆発する優れた才能の持ち主がいるに違いない。
中央のサークルでギターを弾きながら何かがむしゃらに歌っている金髪の男が?
静かに読書をしている、あるいは、何か書き物をしている若い女が?
目の前で撮影の準備を始めたグループのリーダーの若い女(学生か?)が?
大勢いるが、それぞれにときを過ごしている、ある晴れたさわやかな月曜日のワシントンスクエアー。
大勢いて、それぞれにときを過ごしているが、この公園にこの瞬間に集まったという出来事を共有する人々。
ただ、何気なく通り過ぎる若者か、
木陰で書き物をする若者か、
誰が栄光をつかむのか。
夢をつかむのは誰か。
平和である。
この瞬間、平和なひとときである。
4月8日
ティファニーガラス。
スタジオで作るガラス、例えばボールなどの意匠については、既にほとんど、過去の作家により試みられたといってもいいだろう。
スタジオでボールを造る、この意味といえば、一品一様、カスタマイズ、希少価値からくるコスト競争力、なのだろう。
背景としてあるのは、ハイテクとコストパフォーマンスということか。
ニューヨークは、裏通りに入れば、なにせ古い建物が多く、一見みすぼらしく見える。
戦前に建てられたと思われるビルディングが、なまじ耐久力があるため今も使われている。
建設時は華やかで希望に満ちていたのだろう。
ときを経て、経済力の衰えからか、外観のメンテに大きな投資はできないようで、あちこちにボロが目立つ。
日本に住んでいては気がつかないが、日本の住居は、戦後建てられたものがほとんどで、比較的新しいのだ。
4月9日~ 旅は続く
この後も旅は続く。
ニューヨークで車をレンタルし、アメリカ北東部、東部を広く巡ってニューヨークへ再び戻り、JFK国際空港から日本への帰路に就く。
4月9日 レンタカーでフィラデルフィアへ移動
4月10日 フィラデルフィア、フィラデルフィア美術館、ロダン美術館、旧首都の観光
4月11日 ワシントン、スミソニアン博物群、フィリップス・コレクション、現首都の観光
4月12日 ウェストバージニア
4月13日 観光しながら移動
4月14日 シカゴ、シカゴ美術館、市街地の観光
4月15日 トレド美術館、観光しながら移動
4月16日 コーニング美術館
4月17日 観光しながら移動
4月18日 ボストン、ボストン美術館
4月19日 移動、JFK空港でレンタカー返却
4月20日 日本への帰航
様々な体験、もはや楽しくも懐かしい思い出となった。
フィラデルフィア、ワシントンDC、シカゴ、ボストンの観光巡りと美術館巡り。
セザンヌ「大水浴」、ゴッホ「ひまわり」(フィラデルフィア美)、レオナル・ド・ダビンチ(ナショナルG)、ルノワール「舟遊びの昼食」(フィリップスC)、スーラ「グランドジャット島の日曜日の午後」(シカゴ美)、ミレー「種をまく人」(ボストン美)。。。
その間の、アメリカの農場地帯、雄大な景色、様々な街の顔。
ケービングトレイル、二回の無断駐車の罰金、車中泊での恐怖体験、JFK国際空港での泊まり込み。。。
ワシントンDCは、ホワイトハウスがあるところだ。
当然、治安はいいと思っていた。
現実は、少し離れると、都市の典型的な治安の悪さの象徴のようなところだ。
路肩のパーキングメーターはことごとく破壊されていて、コンビニは防弾ガラス越しに店員が対応する。
近くに外国人街や黒人街があるようで、秩序が感じられない。
大きな通りで、昼間は車の通行量が結構あった。
開けた場所だったし、車中泊には最適だと思ったので、路肩に駐車して就寝する。
ところが、夜更けごろ、窓をたたく黒人に起こされる。
何か言っている、なかなか行ってくれない。
周りは暗く、車の行き来もほとんどない。
昼間、前後に路上駐車していた車は、すっかりいなくなっている。
やばい、でも、無視し続けるのもやばそう。
そっと、窓を少しだけ開けると、金をくれと言っているのが分かった。
I need money to feed kids!
当然、お金は無い旨こちらも主張する。
でも、行ってくれない。
根負けして財布を取り出したが、それは、今思い出しても最も危険な瞬間だった。
財布を見て、黒人が凶暴化したら!
実際は、財布から一ドル紙幣を抜き出して与えたら、嘘のようにすんなり黒人は去っていった。